澪がドアを開ける気配がして、匠は手元の本を伏せた。
ノックはない。最初の頃はしていたけれど、いつの間にかしなくなった。そのほうがいい。ノックには返事がいる。返事には判断がいる。入っていいのか、今夜はどうか。そういうことを澪にいちいち考えさせたくなかった。
だからドアは、いつも薄く開けてある。
「……兄ちゃん」
小さい声。廊下の暗がりをそのまま連れてきたみたいな声だった。
「うん。おいで」
デスクチェアを離れてベッドに腰を下ろす。澪が裸足のまま入ってくる。Tシャツの裾を左手の指先だけでつまんでいた。不安なときの癖だ。指先が白くなるくらい、きつく握っていた頃もあった。今はもう、布地に触れているだけ。
「寒くなかった? 廊下」
「……ちょっと」
「靴下、履いてくればいいのに」
「……うん」
匠が右手を差し出すと、少しだけ間があって、澪の手が乗った。指先が冷たい。両手で包んで、ゆっくり温める。
「ほら。座りな」
ベッドの縁に並ぶ。澪の重みでマットレスが傾いで、そのぶんだけ肩同士が近くなった。
「今日、講義どうだった」
「……英語がきつかった」
「テキスト見せてみ、俺も去年取ってたから」
「いい。自分でやる」
「そう。まあ、困ったら言えよ」
うなずく。匠の胸元あたりを見ている。目は合わせてこない。
合わせなくていい、と匠は思う。
しばらく並んで座っている。この時間を急かしたことはない。澪が何を待っているのか分かっているから。迷っているわけじゃない。覚悟をしているのでもない。ただ、自分のなかの何かが凪ぐのを、じっと待っている。
匠は待てる。いつだって待てる。
澪の額が肩に触れた。
「兄ちゃん」
「うん」
「…………」
言葉にはならない。けれど、こういうときの澪が何を差し出そうとしているか、匠にはもう分かっていた。
「横になろうか」
小さくうなずいたのを確かめてから、肩に手を添えて、ゆっくり横たえる。枕に頭を乗せてやると、髪が暗い色で広がった。少し伸びている。
「切ったほうがいいかもな」
「……兄ちゃんが切って」
「いいよ。日曜な」
微かに笑う。口の端だけの、小さな笑い方。匠の前でしかしない笑い方だ。
頬に手を当てた。温かい。匠の指先のほうがまだ冷えていて、澪の頬がかすかに引き攣った。
「冷たいか、ごめん」
「ううん。……大丈夫」
首筋に指を滑らせると、脈が速い。身体は正直だ。だからこそ丁寧に触る。驚かせないように。怖がらせないように。鎖骨の窪みを指の腹でたどると、澪の睫毛が震えて、ゆっくりと目が閉じた。
「力、抜いていいよ。そう。いい子」
Tシャツの裾に手をかけると、澪が自分から腕を上げた。それが合図であり、許しであり。匠にとっては、毎回こころの底から安堵する瞬間だった。
肌に触れる。薄い胸郭の下で心臓が速く打っている。脇腹を掌で包むと、澪が小さく息を呑んだ。
「気持ちいい?」
「……ん」
「そう。いい子だね」
腰骨のあたりを親指でなぞると、背がわずかに反った。
「上手。力抜けてる」
褒めると呼吸がひとつぶん深くなる。ゆるんだところにそっと触れると、声がこぼれた。怖がっている声じゃない。身体がそう応えているだけだ。
「兄ちゃ……っ」
「うん。大丈夫。ちゃんと見てるから」
全部見ている。どこに触れたら声が漏れるか、どこで息が止まるか。澪の身体のことは、たぶん澪自身よりも匠のほうが分かっている。
目がうるんで、焦点が遠くなっていく。何か考えようとして、考えられなくなっている顔。
「何も考えなくていいよ」
こめかみに唇を落とす。
「気持ちいいなら、それでいいから」
澪がこくりとうなずく。そうだよ。気持ちいいんだよ。何も間違ってない。
声が途切れ途切れになる。名前を呼ぼうとして、呼びきれない。
「……にい、ちゃ……っ」
「ここにいるよ。上手だよ、澪」
涙がこぼれそうな顔をしていた。気持ちよくて、怖くて、でも安心していて、全部が混ざって溢れている。そういう顔だ、と匠は思った。
「よくできたね」
額の汗を指で拭ってやると、澪がまっすぐ目を合わせた。何か言おうとして、結局何も言えずに、目を閉じた。
*
呼吸が落ち着くまで、匠は背中をさすり続けた。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「好きだよ」
「……おれも」
「うん。知ってる」
澪の指が匠のシャツを掴んだまま離れない。
「そろそろ戻りな」
「……もうちょっと」
「いいけど。あんまり長くは駄目だぞ」
「……わかってる」
わかっている。この部屋の外では兄弟で、朝になれば食卓でおはようと言い合う。大学で会っても、何もなかった顔をする。澪はそれを完璧にこなす。教えたことはない。澪が自分で覚えた。
指がゆるんで、寝息に変わる。前よりずっと早い。
匠は澪の前髪を右に流してやった。日曜に切ると約束した。小さい頃からずっと匠が切っている。澪は匠以外に髪を切らせたことがない。
ドアを開けて、手を差し出して、待つ。来てくれるまで、長かった。でも澪はちゃんと来てくれた。毎晩、自分の足で。
いい子だ、と匠は思う。
本当に、いい子だ。