「え! 先生、AI使ってるんですか?!」
思わず声が裏返った。
能勢先生の仕事場はマンションの一室で、防音はそこそこしっかりしている。隣に聞こえる心配はまずないけれど、自分の声の上ずり方に自分でひるんだ。
「使ってるよ? 逆にさ、今どき使ってない人いる?」
能勢先生はマグカップに口をつけながら、信号が青に変わったから渡る、くらいの調子で言った。
いる。少なくとも、使っていると口に出さない人は、たくさんいる。
つい先週のことだ。人気ライトノベルのコミカライズで、担当のキャラクターデザインにAIが使用されていたことが発覚した。原作者がSNSで「聞いていない」と投稿し、二時間後には連載からの降板を表明。出版社が翌日出した謝罪文は火に油を注いだだけで、タイムラインは四日間燃え続けた。あれからまだ十日しか経っていない。出版社の謝罪文のスクリーンショットが、僕のブックマークにまだ入っている。
「先生、具体的にはどういう……」
「校正さんとか校閲さんに戻されるような指摘を、先に自分で潰しておく感じかな」
「潰す、というと」
「たとえば名前の被り。キャラクターの名前つけるとき、過去の作品と被ってないかチェックしてもらってる。長くやってるとさ、自分の作品の中で苗字が被ったり読みが近かったりするんだよ。何十冊ぶんの登場人物を毎回自分でさかのぼるの、地味にしんどくて」
それは、わかる。能勢先生はデビュー十五年、既刊二十四冊だ。シリーズものの脇役まで含めれば、登場人物は軽く三百人を超える。
実際、七巻の被害者の苗字が三巻の犯人と同じだったことがある。校正で指摘が上がって、僕が先生に連絡して、先生が代わりの名前を考えて、僕がそれを校正に戻して。あの一往復半に、たしか四日かかった。
「あとはプロットの整合性かな。トリックが物理的に成立するかとか、時系列に矛盾がないかとか。それから作中の法律や制度がざっくり合ってるかも見てもらう。もちろんあとで自分でも裏取るけど、あたりをつけるのに便利でさ」
「…………」
「あ、あとブレスト。プロットの初期段階で壁打ち相手になってもらったり。人間の目だと見落とすところ、けっこう拾ってくれるんだよね。もちろん最終判断は自分だけど」
能勢先生はそう言って、テーブルに広げたゲラを指先でとんとんと叩いた。次の新刊のゲラだ。僕が先週渡したばかりの。赤字はほとんど入っていない。いつもより、ずっと少ない。
それはそうか、と思った。校正に回る前に、先生が自分で潰しているのだから。
「内海くん」
名前を呼ばれて、僕は手帳から顔を上げた。能勢先生は、穏やかな目をしていた。
「最近、忙しいでしょ」
「え?」
「朝比奈さんが売れ出して。新刊、三刷かかったんだよね。すごいじゃない」
朝比奈先生。僕のもう一人の担当作家だ。昨年デビューして、二作目が口コミで火がつき、三作目で一気にブレイクした。ありがたいことだ。ありがたいことだけれど、対応に追われて他の担当作家にかけられる時間は確実に減っている。能勢先生の原稿を読む時間も、返事を返すまでの日数も、去年の同じ時期とは違っている。そのことは、僕自身がいちばんよくわかっている。
「だからさ。校正さんや校閲さんとのやりとり、省いてあげようと思って」
省く。僕と校正のあいだを行き来する、あの工程を。
能勢先生は優しい人だ。十五年の付き合いで、それは嫌というほど知っている。打ち合わせにはいつもコーヒーを淹れてくれるし、年末には手書きの葉書をくれる。僕が異動の挨拶に来たとき、もう九年前になる、「よろしくね」と笑ってくれた顔を、今でも覚えている。
その優しさが、僕のいる工程を短くしている。
「先生」
「うん?」
「……とにかく、外には言わないでくださいね」
「もちろん」
能勢先生はあっさりうなずいた。こういうところだ。新しいものを怖がらない。試して、判断して、飲み込んで、自分のやり方に組み込んでしまう。十五年書き続けて、まだ変化をためらわないところが、この人の強さなのかもしれない。
僕はそれ以上なにも言えなくて、手帳をバッグにしまった。
帰りの電車で、つり革につかまりながら考えた。
あの七巻の名前の被り。校正の指摘を受けて、僕が先生に電話して、先生が考え直して、僕が校正に戻す。四日かかったあのやりとりが、先生のパソコンの中で、数秒で終わる。
八巻のアリバイトリックの時系列のズレ。あれは校閲が見つけて、僕経由で先生に戻した。修正原稿が来て、僕がそれを確認して、もう一度校閲に回して。あの往復も、もう要らない。
能勢先生は僕の代わりを見つけたんじゃない。僕が忙しくて手が回らなくなったから、先生が自分で工程を縮めたのだ。善意で。僕のために。
スマートフォンが震えた。朝比奈先生からメッセージが三件。重版の帯コピーの確認依頼が一件。営業部からの問い合わせが二件。
時代が変わっていくのだろうか。
たぶん、変わっていく。
僕の手が足りないから先生はAIを使い始めた。先生がAIを使い始めたから僕の手はさらに要らなくなる。その循環を止める方法を、僕はまだ知らない。
炎上だけはしないでくれ。
頭のなかで、その祈りだけがぐるぐる回っていた。AIの是非とか、出版の未来とか、そういう大きな話じゃない。もっと切実で、もっと足元の話だ。能勢先生がべつの作家との飲みの席で「使ってるよ」と口を滑らせて、その作家が自分のSNSに「某ミステリ作家もAI活用してるらしい」と書いて、どこかの誰かがスクリーンショットを撮って。その導火線の先にあるものを、僕は十日前に見たばかりだ。
電車がターミナル駅に滑り込んだ。降りて、改札を抜けて、会社に向かって歩きながら、僕は打ち合わせの議事録をスマートフォンで開いた。
「プロット確認、問題なし。ゲラ戻し来週木曜」
それだけ打って、保存した。AIのことは一文字も書かなかった。