選び取ったのはわたしで、選ばせてくれと頼んだのもわたしだった。彼が意識のあるあいだに口にしていたのは、逃げろ、ということだけで、それ以外の言葉を彼はわたしに残さなかった。彼はずっとそうやって生きてきた。逃げて、逃がして、自分の身ひとつで道をふさぐ。わたしは同じ道を選ばないと決めていた。決めていた、と過去形で書いてしまえる時点で、もう決めた瞬間は終わっている。どんなことをしたって助ける、と思ったはずだった。思ったはずなのに、思ったことの輪郭が、いま、うまく辿れない。
色がうまく認識できない。
赤、と頭が言う前に、においが先に来る。鉄のにおい。むせかえる、という言い方は知っていたけれど、本当にむせかえるとはこういうことだったのか、と他人事のように考える自分がいる。鼻から息を吸うのをおさえる。これ以上からだに取り込まないように。は、は、と口の浅いところで息を回す。胸が膨らみきらない。
待ち望んだはずの希望は、目の前の脅威を文字通り叩き潰した。
潰したのは彼の手で、その手はいま、わたしの方に伸びている。出会った日と同じ、遠慮がちな笑い方で。出会った日と少しも変わらない眉の落とし方で。違うのは、指のあいだに溜まっているものと、それが重力にしたがって粘度を持って落ちてくることだけだ。落ちて、わたしの掌に届く。届いた瞬間、それは別の生き物のように、わたしの皮膚の上を勝手に流れていった。
恐怖の逃げ道を作ってあげれば、人はかんたんに楽な方へ転がり落ちてくる。誰がそう言ったのだったか。たぶん彼ではない。彼はそんなふうに人を見ない。けれどいま、わたしの中でその文章だけが回っている。逃げ道を作ったのはわたしだ。彼に、楽な側へ落ちる道を、わたしが整えてしまった。
これでどう。
彼に、訊ねてみたかった。
彼はたぶん、いつものように、なんでもまかせる、と言うだろう。なんでも、というのは、本当は何も決めないでいることに近い。それでも彼はそう言うだろう。そう言って、笑うだろう。血のにおいの中で、笑うだろう。
わたしの掌は、まだ温かいものを受け止めたまま、閉じられない。