2026.05.07

正解の温度

サイト限定

922文字 約2分

選び取ったのはわたしで、選ばせてくれと頼んだのもわたしだった。彼が意識のあるあいだに口にしていたのは、逃げろ、ということだけで、それ以外の言葉を彼はわたしに残さなかった。彼はずっとそうやって生きてきた。逃げて、逃がして、自分の身ひとつで道をふさぐ。わたしは同じ道を選ばないと決めていた。決めていた、と過去形で書いてしまえる時点で、もう決めた瞬間は終わっている。どんなことをしたって助ける、と思ったはずだった。思ったはずなのに、思ったことの輪郭が、いま、うまく辿れない。


色がうまく認識できない。


赤、と頭が言う前に、においが先に来る。鉄のにおい。むせかえる、という言い方は知っていたけれど、本当にむせかえるとはこういうことだったのか、と他人事のように考える自分がいる。鼻から息を吸うのをおさえる。これ以上からだに取り込まないように。は、は、と口の浅いところで息を回す。胸が膨らみきらない。

待ち望んだはずの希望は、目の前の脅威を文字通り叩き潰した。

潰したのは彼の手で、その手はいま、わたしの方に伸びている。出会った日と同じ、遠慮がちな笑い方で。出会った日と少しも変わらない眉の落とし方で。違うのは、指のあいだに溜まっているものと、それが重力にしたがって粘度を持って落ちてくることだけだ。落ちて、わたしの掌に届く。届いた瞬間、それは別の生き物のように、わたしの皮膚の上を勝手に流れていった。

恐怖の逃げ道を作ってあげれば、人はかんたんに楽な方へ転がり落ちてくる。誰がそう言ったのだったか。たぶん彼ではない。彼はそんなふうに人を見ない。けれどいま、わたしの中でその文章だけが回っている。逃げ道を作ったのはわたしだ。彼に、楽な側へ落ちる道を、わたしが整えてしまった。


これでどう。

彼に、訊ねてみたかった。

彼はたぶん、いつものように、なんでもまかせる、と言うだろう。なんでも、というのは、本当は何も決めないでいることに近い。それでも彼はそう言うだろう。そう言って、笑うだろう。血のにおいの中で、笑うだろう。

わたしの掌は、まだ温かいものを受け止めたまま、閉じられない。

掌編 シリーズの他の作品

  1. 輪郭をなぞる
  2. 0.5秒
  3. 穴埋め
  4. 行きつけ
  5. 体質
  6. 密閉
  7. ご機嫌のゆくえ
  8. 秋の日は鶴瓶落とし
  9. 人肌は癖になる
  10. うちのママの絵
  11. 指定席
  12. 風邪をひいた時に見る夢
  13. 飽和食塩水
  14. 促音便
  15. 影送り
  16. 苦しそうな顔をする
  17. 頭を撫でる話
  18. 横溢
  19. 迷信に頼りたくなる日
  20. 懺悔する癖
  21. 雨は地に恋して落ちてくる
  22. 調律
  23. 督促
  24. 青切符
  25. 空にする
  26. 金曜日の六個
  27. 面接後の儀式
  28. 赤字
  29. 体操服
  30. 全員まる
  31. 右側の男
  32. 若竹色のラリエット
  33. 鏡のかけら
  34. 図々しい
  35. 走性
  36. 体温
  37. 馬鹿になる
  38. なくしたくない
  39. 北極星のままで
  40. 過淡
  41. ルブタン履いて外股の女
  42. 発泡ウレタンの日