2026.05.18

サイト限定

933文字 約2分

三十時間ぶりに帰った台所で、真島は鰤を卸した。

スーパーで半額になっていた四分の一の切り身を、まな板の上に据える。出刃は実家から持ってきたまま一度も研いでいない。背骨に沿って刃を入れるとき、いつもの角度が出なかった。指先が疲れている。途中で面倒になって、皮は手で剥いだ。

柵にした身を皿に並べたところで、なんとなくスマートフォンを構えた。照明は蛍光灯、皿は引っ越し祝いでもらった白い丸皿。醤油はキッコーマンの卓上瓶。

医師専用のSNSを開いて、「made sashimi at home 🐟」とだけ書いて投稿した。ここには同業者しかいない。

最初の通知はサンパウロの心臓外科医だった。

Bro, that’s a fracture, not a cut

次にベルリンの整形外科。

The tissue handling is giving me anxiety

一時間で通知は四十を超えた。誰かが写真を拡大して断面を赤いペンで囲い、“I would not let this man near my appendix” と書き添えている。

ソウルの胸部外科がハングルのあとに日本語を添えていた。

「こいつに執刀任せて大丈夫か?笑

どの指摘も正しい。断面は粗く、繊維の方向を完全に無視している。皮の剥がし方に至っては供述を拒否したい。

真島はソファに沈んだままスレッドを眺めた。四十件のコメントのうち、鰤の味について触れている者は一人もいなかった。全員が断面の話をしている。

――こいつら全員、同じ目をしている。

それは悪口ではなかった。世界のどこにいても同じ一点を見てしまう人間が、ここには何万人もいる。その事実がすこしだけ心地よかった。

通知がまたひとつ増えた。シカゴの脳神経外科医が、自分の台所で卸したらしい鮭の写真を貼っている。Solidarity と一言だけ添えられた断面は真島の鰤と同じくらいひどかった。

真島は鰤を口に入れた。繊維がばらけて歯に当たる。
明日も十時から僧帽弁の置換がある。返信欄に親指を立てた絵文字をひとつ置いて、真島は通知を閉じた。

掌編 シリーズの他の作品

  1. 輪郭をなぞる
  2. 0.5秒
  3. 穴埋め
  4. 行きつけ
  5. 体質
  6. 密閉
  7. ご機嫌のゆくえ
  8. 秋の日は鶴瓶落とし
  9. 人肌は癖になる
  10. うちのママの絵
  11. 指定席
  12. 風邪をひいた時に見る夢
  13. 飽和食塩水
  14. 促音便
  15. 影送り
  16. 苦しそうな顔をする
  17. 頭を撫でる話
  18. 横溢
  19. 迷信に頼りたくなる日
  20. 懺悔する癖
  21. 雨は地に恋して落ちてくる
  22. 調律
  23. 督促
  24. 青切符
  25. 空にする
  26. 金曜日の六個
  27. 面接後の儀式
  28. 赤字
  29. 体操服
  30. 全員まる
  31. 右側の男
  32. 若竹色のラリエット
  33. 鏡のかけら
  34. 図々しい
  35. 走性
  36. 体温
  37. 馬鹿になる
  38. なくしたくない
  39. 正解の温度
  40. 北極星のままで
  41. 過淡
  42. ルブタン履いて外股の女
  43. 発泡ウレタンの日