2026.05.13

鏡のかけら

サイト限定

791文字 約1分

心臓に鏡のかけらが刺さったようだった。雪の女王様に魅入られた少年のように。

少年は気づかなかった、とアンデルセンは書いた。かけらが刺さったまま世界を見るから、美しいものが醜く見えた。花を踏んで笑った。雪の結晶の完璧な幾何学に魅入られて、ゲルダの声が届かなくなった。冷たいものを冷たいと感じられなくなった。それが呪いだとは誰も教えなかった。

そうと気づいたのは、ずいぶんあとのことだ。あのときから何かが変わっていたと思い当たっても、原因は特定できなかった。痛みがどこから来るのか、なぜ特定の方向にばかり動くのか。走性のようなものだ、と思った。選んでいるわけではないのに、気づくとそちらを向いている。かけらの刺さった方角に引かれるように。

心の奥底に根を張ったまま抜けない。引き抜こうとするたびに奥へ沈む気がして、やめた。かといって忘れることもできない。ふとした瞬間に痛む。冬の朝の空気を吸ったとき。誰かの笑い声が遠くで聞こえたとき。窓に霜がおりた朝、光が屈折して虹をつくったとき。かけらが光に反応して、きらりと内側で光る。

快癒することなく、瘡蓋が剥がれても傷痕はのこったまま。指で触れると、まだそこにある。なくなっていない。かけらが胸の中で回転して、別の面が光を受ける。そうするとまた新しい痛みかたをする。同じ傷なのに、いつまでも新しい。ひとまずの落ち着きを取り戻すまでじっと耐えた。それが唯一できることだった。

物語の中では、ゲルダの涙がかけらを溶かした。温かい涙が胸の中まで届いて、少年は泣いた。泣いたことでかけらが目からも流れ出た。

良案がない。涙はとうに枯れた。誰かに聞いても良案は出なかった。自分で考えても出なかった。何年経っても出なかった。緘黙する。かけらはまだそこにある。光を受けるたびにきらりと光って、まだここにいると告げている。

掌編 シリーズの他の作品

  1. 輪郭をなぞる
  2. 0.5秒
  3. 穴埋め
  4. 行きつけ
  5. 体質
  6. 密閉
  7. ご機嫌のゆくえ
  8. 秋の日は鶴瓶落とし
  9. 人肌は癖になる
  10. うちのママの絵
  11. 指定席
  12. 風邪をひいた時に見る夢
  13. 飽和食塩水
  14. 促音便
  15. 影送り
  16. 苦しそうな顔をする
  17. 頭を撫でる話
  18. 横溢
  19. 迷信に頼りたくなる日
  20. 懺悔する癖
  21. 雨は地に恋して落ちてくる
  22. 調律
  23. 督促
  24. 青切符
  25. 空にする
  26. 金曜日の六個
  27. 面接後の儀式
  28. 赤字
  29. 体操服
  30. 全員まる
  31. 右側の男
  32. 若竹色のラリエット
  33. 図々しい
  34. 走性
  35. 体温
  36. 馬鹿になる
  37. なくしたくない
  38. 正解の温度
  39. 北極星のままで
  40. 過淡
  41. ルブタン履いて外股の女
  42. 発泡ウレタンの日