勾配を計算することにした。どこへ向かえば最も急に近づけるか。偏微分で解けると思った。感情の変数を固定して、距離だけを動かせばいい。確度をあげるとはそういうことだと信じていた。
変数は多かった。表情、声の高さ、返信までの時間、笑い方の種類、髪を耳にかける頻度、その日の天気。ひとつひとつ固定しながら、何が動いているのかを追った。ノートの端に走り書きした数式は、一日ごとに増えていった。相関があると思えば次の日にはなくなり、なくなったと思えば別の形で現れた。追えば追うほどわからなくなった。感情は偏微分に向いていない。連続していないし、微分可能でもない。定義域すら怪しかった。
確度をあげたいなんて保身的な考えだ。論を俟たない。
それでも計算をやめられなかった。やめたら何が残るか、わかっていたから。数式の向こう側にあるものを直視するのが怖かった。名前をつけてしまえばもう戻れない。だから勾配で、だから偏微分で、だから変数で呼んだ。呼び方を変えれば性質が変わるわけでもないのに。
走性という言葉がある。光に向かう虫、水を求めて伸びる根、熱源に集まる微生物。環境の勾配に沿って動く。制御ではなく、応答。自分で選ぶわけではなく、気づいたときにはもうそちらを向いている。計算で律することのできない、もっと深いところから湧いてくるもの。
堅調に、それはつづいた。計算をやめても、やめなくても。変数を固定しても、定義域が怪しくても。記憶を弄るのをやめたのはいつだったか。確度を求めるのをやめたのは。どちらが先かも、もうわからない。
ただ身体がそちらを向いている。ノートはとうに閉じた。数式はもう書いていない。それでも勾配の先に何があるか、知っている。知っていて、まだそちらを向いている。