影送りという遊びを教わったのは小学校の校庭だった。自分の影をじっと見つめて、十数えてから空を仰ぐ。するとさっきまで見ていた影が空に浮かぶ。網膜に焼きついた残像が、青の中にうすぼんやりと立っている。輪郭だけの自分が、空にいる。
不思議だったのは、影が消えるまでの時間だ。見つめていたものが消えるには少し間がある。すぐには消えない。一、二、三、と数えるうちにじわじわと薄れていくが、目を凝らせばまだ見える。まだいる。もう少しだけ。そうやって追いかけているうちに、気づくと何もなくなっている。消えた瞬間はわからない。いつも少しだけ遅れて、ああ消えた、と思う。
いなくなったと聞いたとき、少し自失した。少しだけだ。大きく取り乱したりはしなかった。そのことが後からじわじわと気になった。もっと何かあるべきだったのではないか。もっと崩れるべきだったのではないか。けれど実感がなかった。昨日まで隣にいた人間が突然いなくなったという事実を、頭は理解していたが、身体がついてこなかった。
メッセージの送信欄を開いて、打ちかけて、消す。返事が来ないとわかっている相手に文字を打つことの滑稽さに気づいて手が止まる。それでも何日かは開いた。既読のつかない画面を眺めていた。
もう会えない人の顔を思い出そうとすると、いつも少しずれる。目元は覚えている。口元も覚えている。でもそれを一枚の顔として組み立てようとすると、どこかが足りない。写真を見れば済む話だが、写真の顔とこちらの記憶の中にいる顔は別のものだ。写真は正確で、記憶は不正確で、けれど記憶の方にだけ体温がある。
あの校庭でもう一度影送りをしたら、空にはどんな形が浮かぶだろう。自分の影だろうか。それとも、もうとっくに消えたはずの輪郭が、まだ網膜のどこかに焼きついているだろうか。
目を凝らす。もう少しだけ、まだ見えるような気がしている。