それはもう物心ついた頃から当たり前のように彼女とともにあって、もうずっと、その音に引きずられている。
最初に覚えているのは、顎に当てた瞬間の冷たさだ。木の感触が体温を吸って、やがて馴染む。弓を動かすと胸のあたりできぃと鳴る。鎖骨を伝って顎の骨に響いて、それは耳に届くよりも先に身体が知っていた。外で鳴っているのに、まるで内側から聴こえてくるみたいで。彼女と自分の境目がわからなくなる。音が出ているのか、出されているのか。考えることに意味なんてない。どちらでもよかった。音には体温がある、と気づいたのはずっとあとのことだった。
調子の悪い夜は弓を置いて顎だけ当てる。弾いてもよかったし、弾かなくてもよかった。ただ、それはそこに収まるだけ。木の匂いと、松脂の残り香と、長い時間が染み込んだ彼女の体温。左手で首を包むと、わずかに脈を打つような気がした。気のせいだ。もちろんわかっている。けれど、そう感じる夜があった。
彼女は気まぐれだった。こちらが必死なほど遠ざかり、弓圧を強めると音はつぶれ、かといって力を抜きすぎれば芯がなくなった。こちらの焦りを映す鏡のように、そのまま返してくる。そして、あきらめた瞬間にふっと戻ってくる。いつも一歩先にいた。
威圧するような音は恐ろしかった。上手い人の音でも、広い会場の音でも、本番前の舞台袖で隣から聞こえてくる音でも。そういうものに引きずられると、自分の音の輪郭がぼやけた。さっきまで聴こえていた内側の響きが遠くなった。
冷たい音はもっと怖かった。指が正確に動いているときの音。義務で弾いているときの音。上手く弾けたのに何も残らない演奏会の帰り道、ケースの中の彼女がいつもより重く感じた。弾いたはずなのに触れていなかった、と思う。そういうものの中にいると、自分の音がなくなる気がした。なくなるわけではないと頭ではわかっていても、耳を塞がずにいられなかった。
必死に塞いで、内の音と向き合う。もう馴染みすぎて体に溶けてるような、彼女の音。まだある。まだ鳴っている。
大丈夫、大丈夫。まだ、大丈夫。