那覇のホテルのロビーは、台風の余波で足止めを食った人間たちの熱気で蒸れていた。
飯田奈歩はフロントカウンターの列に並びながら、スマートフォンで翌日の便の欠航情報を確認していた。朝の便も昼の便も欠航。少なくともあと一泊は必要だった。
予約していた部屋のチェックアウトは今朝で、延泊の希望は出していたが確約はもらえていなかった。同じ状況の人間がこのロビーに何十人もいると思うと、気が急いた。
列は遅々として進まなかった。前に並んでいる家族連れが、小さな子どもを抱き上げたりおろしたりしている。その向こうに、もうひとつのカウンターがあった。「メンバーズ専用」と小さなプレートが出ている。
そちらには列がなかった。スーツを着た男性がひとり、カウンターで何かを確認していた。スタッフが手際よくカードキーを差し出すのが見えた。男性はそれを受け取り、軽く会釈して、エレベーターのほうへ歩いていった。一分もかかっていなかった。
飯田の番がようやく来た。
「延泊のご希望ですね。確認いたします」
スタッフがモニターに向かい、しばらく画面を操作した。
「申し訳ございません。スタンダードのお部屋は現在満室でして。クラブフロアでしたらご用意が可能です」
クラブフロア。泊まったことはない。料金を訊くと、昨日までの部屋の倍以上だった。
「ほかの選択肢は」
「近隣のホテルをお探しになることも可能ですが、現在どちらも混み合っておりまして」
台風の最中に荷物を引きずって別のホテルを探す自分の姿が一瞬浮かんで、すぐに消えた。
「クラブフロアでお願いします」
エレベーターに乗って、さっきのスーツの男のことを考えた。あの人はスタンダードに泊まれたのだろう。メンバーズの専用レーンで、待つこともなく、倍額を払うこともなく。満室のはずの部屋がカードキーとともに差し出された。
理不尽だとは思ったが、仕組みとしては理解できた。上の会員には優先枠がある。金を出せば上の部屋にも泊まれる。それはルールであって、隠されてはいない。飯田がそのルールの恩恵の外にいただけだ。
クラブフロアの部屋は広かった。窓の外で暴風雨が吹き荒れていて、どこにも出られなかった。ラウンジで一人でコーヒーを飲んだ。ぼんやりしていたら、窓に雨粒が横殴りに打ちつけて、ソファごと揺れるような錯覚があった。三万八千円のコーヒーだと思った。
三週間後、名古屋への日帰り出張が入った。先方の都合で翌日に追加のミーティングが決まり、急遽一泊することになった。
ホテルを探した。那覇のホテルチェーンは候補に入れなかった。あの三万八千円のコーヒーの味がまだ舌に残っていた。というのは嘘で、コーヒーの味なんか覚えていない。覚えているのはあのスーツの男の背中だった。ああいう思いをするのが嫌で、別のチェーンを選んだ。
ホテルコーラルという全国展開のチェーンだった。最近リニューアルしたらしく、予約画面には三つのプランが並んでいた。シンプル、スタンダード、フレックス。出張で一泊するだけだ。シンプルを選んだ。七千二百円。
予約完了のメールが届いた。確認番号、宿泊日、チェックイン時間。一通り読んで閉じようとしたとき、メールの最下部、フッターの注意書きのすぐ上に、グレーの小さな文字で一行あった。
「ご宿泊前日の正午までに、アプリまたはウェブサイトよりオンライン事前確認をお済ませください。」
リンクが貼ってあった。飯田はそれをタップせず、メールを閉じた。前日にやればいいことを今やる必要はなかった。
出張前日の夜、飯田はホテルコーラルのアプリを開いた。正午はとっくに過ぎていたが、画面上は特にエラーも警告もなく「事前確認を開始する」というボタンが表示されていた。
タップする。名前と予約番号が自動入力されている。次の画面に進むと、「本人確認のため、マイナンバーカードまたは運転免許証のICチップを読み取ってください」と表示された。
マイナンバーカードを財布から出し、スマートフォンの背面にかざした。
「読み取りに失敗しました。カードをもう一度かざしてください。」
角度を変えてもう一度かざした。数秒、画面にローディングのアイコンが回って、同じメッセージが出た。
スマホケースを外した。カードの表裏を確認した。もう一度かざした。失敗。
画面には「読み取りに失敗しました」とだけ表示されていて、何が原因なのかは書かれていなかった。カードが悪いのか、スマートフォンが悪いのか、アプリが悪いのか、自分の持ち方が悪いのか、判断する材料がなかった。
五回目に失敗したとき、画面の下部に小さなリンクが現れた。「読み取りができない場合」。タップすると、「チェックイン当日、フロントにてお手続きください」と一行だけ書かれていた。
それしかないか、と思った。明日フロントでやればいい。大した手間でもない。
名古屋駅からタクシーで十分。ホテルコーラルの外観は新しくて清潔で、エントランスの自動ドアが静かに開いた。
フロントには二人のスタッフがいた。一人が対応中で、もう一人が飯田に「いらっしゃいませ」と微笑んだ。
「予約している飯田です。事前確認がアプリで完了しなかったので、こちらでお手続きしたくて」
スタッフは予約番号を確認し、モニターに向かった。笑顔が少しだけ固くなったのを、飯田は見逃さなかった。
「飯田様、こちらのプランでは、ご宿泊前日の正午までにオンライン事前確認を完了していただく必要がございまして」
「はい。やろうとしたんです。ICの読み取りが何度やっても通らなくて」
「さようでございますか。大変ご不便をおかけいたしました。ただ、事前確認がお済みでないお客様については、お部屋のご用意が難しい状況でして」
飯田は一瞬、言われたことの意味がわからなかった。予約はしている。お金も払っている。なのに部屋がない。
「あの、読み取りが通らなかったのはこちらのせいではないと思うんですが」
「おっしゃる通りで、大変申し訳ございません」
スタッフは本当に申し訳なさそうだった。マニュアル通りの謝罪ではなく、自分でもこの状況がおかしいと感じている人間の顔をしていた。
「上のクラスのお部屋でもかまいません。差額は出しますので」
「ありがとうございます。ただ、お部屋の問題というよりも、お手続きの問題でして」
お手続きの問題。
予約はしてある。金は払っている。上の部屋でもいいと言っている。それでも「手続き」が完了していないから泊まれない。
那覇のあの夜を思い出した。あのときは金を出せば解決した。ここでは金の話ですらなかった。
「他のお客様は、問題なく完了されていますか」
訊いてから、嫌な質問をしたと思った。
「はい、多くのお客様にはスムーズにご利用いただいております」
多くのお客様は通っている。自分だけが通らなかった。
何かを言い返す言葉を探したが、見つからなかった。システムの画面に出ていたのは「読み取りに失敗しました」だけだ。アプリのバグかもしれないし、自分のスマートフォンの問題かもしれないし、カードのかざし方が悪かったのかもしれない。怒るにしても、何に怒ればいいのかわからなかった。
目の前のスタッフは悪くない。それは見ればわかる。この人も困っている。だがシステムには顔がない。
「近隣のホテルをご案内いたしましょうか」
那覇で聞いたのと同じ台詞だった。あのときは台風で外に出られなかった。今日は晴れている。荷物を引きずって別のホテルを探すことはできる。できるが、それは飯田が悪かったということになるのだろうか。
「お願いします」
ホテルコーラルのエントランスを出たとき、自動ドアがまた静かに開いた。入るときと同じ速度で、同じ静けさで。追い出された感触がどこにもなかった。それが一番気味が悪かった。
結局、駅の反対側のビジネスホテルに空きがあった。予約なしの飛び込みで、フロントで名前と住所を紙に書いて、クレジットカードを出して、カードキーを受け取った。所要時間三分。ICチップの読み取りはなかった。
部屋に荷物を置いて、ベッドの端に座った。窓の外に名古屋の夜景が広がっていたが、見る気分ではなかった。
スマートフォンを取り出して、ホテルコーラルの予約完了メールを開いた。もう一度あのグレーの文字を読んだ。「ご宿泊前日の正午までに」。正午までに、と書いてある。飯田がアプリを開いたのは夜だった。正午を過ぎていた。画面にはエラーも警告も出なかった。正午を過ぎていたから読み取りが通らなかったのか、それとも読み取り自体が失敗していたのか、それすら今となってはわからなかった。
もうひとつわからないことがあった。あのスタッフは「お部屋のご用意が難しい」と云った。本当に部屋がなかったのか。それとも手続きの不備を理由に回されただけで、部屋自体はあったのか。訊けなかった。訊いたところで答えは出なかっただろう。
翌週、会社の昼休みに加瀬にこの話をした。加瀬は営業部の同期で、出張の多い人間だった。
「それ最悪だね。てかそのホテルチェーン、最近そういう話よく聞くよ」
「やっぱり」
「私もさあ、前にソウルで似たようなことあった」
加瀬は冷めた社食のうどんを啜りながら話した。予約していたホテルに、チェックインの三日前になって突然キャンセルのメールが来た。理由を問い合わせたら、近くの会場で大きなイベントがあるため料金体系を見直すことになった、と。要するに、安く予約されていた部屋を高値で売り直したかったらしい。
「で、どうしたの」
「いや、それ違法ですよねって言った。確約した予約を一方的にキャンセルするなら、同等の部屋を同じ金額で用意する義務がありますよねって」
「……通ったの?」
「通った。向こうもわかっててやってるから、突っ込まれたら引くんだよ」
加瀬のうどんの湯気を眺めながら、飯田は考えていた。加瀬には押し返す相手がいた。メールの向こうに、キャンセルを決めた誰かがいた。違法だと言えば引く程度の、人間の判断がそこにあった。
飯田にはそれがなかった。「読み取りに失敗しました」という一行のメッセージに、押し返す方法はない。あれは誰の判断でもない。誰のせいでもない。誰のせいでもないから、飯田自身のせいかもしれない。
那覇のあのスーツの男の背中を思い出す。あの背中は、飯田の三万八千円と引き換えに手に入れた風景だった。悔しかったし、理不尽だった。だが、あのとき飯田は自分に起きていることを全部わかっていた。金で殴られたのだ。殴ってきた拳が見えていた。
名古屋では何も見えなかった。静かに、丁寧に、申し訳なさそうに、自動ドアが開いて閉じた。飯田がそこにいたことを証明するものは何もなかった。予約完了メールだけが、スマートフォンの中に残っていた。
メールを開く。確認番号、宿泊日、チェックイン時間。そしてフッターの上の、グレーの小さな文字。
あの一行を見落としていたら自分が悪いのか。見落とさず、読み取りを五回試して、それでも通らなかった自分が悪いのか。正午を過ぎていたことを画面が教えてくれなかったのは誰が悪いのか。
全部がぼやけていて、何ひとつはっきりしない。それが一番つらかった。