十月の第三週になると、キャンパスの空気が変わる。講義棟の廊下に養生テープの跡が増え、段ボールを抱えた集団が早足で行き交い、どこかの教室から必ずペンキの匂いがする。学園祭まであと十日。わたしの職場であるメディアセンターのPC室も、このところ毎日混んでいる。
普段は卒論の学生が数人いるだけの夕方の時間帯に、四人組が大判プリンターの前で固まっていた。全員がノートPCを開いている。画面にはCanvaのエディタ。わたしは自分のデスクからそれをちらっと見て、ああ今年もかと思った。ここ二、三年で完全にCanvaに切り替わった。PowerPointで学園祭のポスターを作る学生は、もういない。
四人のうちの一人、前髪を目の上で切り揃えた女子学生がこちらを見た。
「すみません、これ、コピーしたいんですけど」
画面を見せてくれた。飲食模擬店のポスターだった。A3サイズ。よくできている。色面の使い方がうまい。おそらく去年の営業風景であろうメインの写真を大胆にトリミングして背景に敷き、その上にフォントサイズの異なる文字情報を三段に配置している。余計な装飾がない。わたしが学生のときにWordArtで作ったあの惨状とは別の世界の成果物だった。
「いいですね、これ」
素直にそう言うと、四人組の空気が少しほぐれた。褒められると思っていなかったのかもしれない。
「ありがとうございます。あの、ここのプリンターってA3出せますよね?」
「出せます。データ、どうやって持ってきました?」
「書き出しました」
USBメモリを差し出された。中を見る。ファイル名は「模擬店ポスター_最終.png」。
拡張子を確認して、それからプロパティを開いた。解像度が足りない。画面で見る分には問題ないが、A3に引き伸ばすと粗くなる。
「これ、PNGで書き出してますね」
「はい」
「PDFで書き出せます? そのほうが印刷向きなので」
女子学生がノートPCに視線を落とした。隣の学生と顔を見合わせる。
「PDF……Canvaから出せるんですか?」
「出せます。右上の共有ボタンからダウンロードを選んで、ファイルの種類をPDFにすれば」
わたしがそう言うあいだに、もう一人の学生、丸い眼鏡をかけた男子が自分の画面で操作を始めていた。数秒後、「あ、ありました」。ほかの三人がその画面を覗き込む。指が画面のどこかをタップする音が四回聞こえた。それぞれの端末で同じ操作をしているらしい。
PDFで再書き出しされたデータを受け取り、大判プリンターに送った。
一枚目が出てきた。
四人が並んで排紙口を見つめていた。ゆっくりとスライドしてくるA3用紙。色はきれいに出ている。写真のトリミングも画面どおり。ただし、四辺に白い帯がある。
前髪の女子学生が排紙口に顔を寄せた。「あれ、端っこ白くないですか?」
「フチですね。この機種だとフチなし印刷はできないんです」
「設定とかで消せないんですか?」
プリンターの設定の問題だと思っているのだ、とわたしは理解した。画面上では端まで色が入っている。印刷しても端まで色が入るのが当然で、入らないのはどこかの設定が間違っているから。そういう推論。理屈としては正しい。正しいのだけれど、前提が違う。
「プリンターの構造上、紙の端ぎりぎりまでインクを載せられないんです。紙を搬送するのに、端を機械がつかんでるので」
四人が黙った。理解できないという顔ではなかった。理解はできるが、その情報をどこに置けばいいかわからないという顔だった。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「一回り大きい紙に印刷して、A3サイズに切る」
言った瞬間、空気が止まった。
四人のうち三人がほぼ同時にわたしの顔を見た。残りの一人、眼鏡の男子はプリンターのほうを見ていた。
通じなかったのかと思った。言い方が悪かったかもしれない。
「つまり、A3より大きいサイズ、たとえばA3ノビっていう規格があるんですけど、そこに同じデータを印刷すると、フチの白い部分がA3の外側にはみ出るので、あとはA3のサイズに合わせて余った部分をカッターで切り落とせば、端まで色が入ったポスターになります」
丁寧に説明し直した。伝わった、とは思う。言葉の意味は伝わった。でも、前髪の女子学生の表情は「なるほど」ではなかった。
「切る、って、ハサミでですか?」
「カッターと定規のほうがきれいに切れますけど、ハサミでもいけます」
彼女はノートPCの画面に目を落とした。Canvaのエディタが開いたままだった。画面の中では、ポスターのデザインが完璧に表示されている。端まで。余白なんかない。
わたしはそのとき、ようやく何が起きているのかわかった。
これは知識の問題ではなかった。「PDFで書き出せる」ことを知らなかったのとは質が違う。PDFの件は手順を知れば解決する。でもこちらは、ソフトウェア上の問題をハードウェア上の手作業で解決するという発想自体が、選択肢として存在していない。画面の中で完結しないものへの対処法を、持っていない。
持っていないことが悪いとは思わなかった。わたしが二十歳のとき、画面の中で何かが完結するという感覚自体がなかった。レポートは紙で出し、写真はプリントし、地図は印刷して持ち歩いた。デジタルは常に物理に着地するもので、着地の仕方を知っていることが前提だった。でもそれはわたしの世代の前提であって、この四人の前提ではない。どちらかが正しいのではなく、前提が違う。
「カッターとカッターマット、貸し出しありますよ」
わたしがそう言うと、眼鏡の男子が「お願いします」と即答した。この四人のなかで、一番最初に動くのはいつもこの子らしい。
備品棚からカッターとカッターマットと金属定規を出した。ついでにA3ノビの用紙も数枚持ってきた。データを送り直し、A3ノビで印刷する。
出てきた紙をカッターマットの上に置いた。フチの白い部分が、四辺に一センチほどある。
「ここのラインに合わせて切ればいい?」眼鏡の男子が定規を当てた。
「そう、印刷の境目がうっすら見えると思うので、そこに合わせて」
最初の一辺を切るとき、彼の手はすこし強張っていた。カッターの刃が紙に入る音がした。定規に沿って、一息で引く。切り離された白い帯がカッターマットの上に残った。
二辺目からは手が慣れた。三辺目は前髪の女子学生が代わった。四辺目はもう一人の女子が切った。残りの一人はスマートフォンでその様子を撮っていた。インスタのストーリーにでも上げるのかもしれない。
四辺を切り終えたポスターを、眼鏡の男子が両手で持ち上げた。
端まで色がある。余白がない。画面で見ていたものと同じものが、紙として、ここにある。ただし断面は手作業の痕跡を残していて、よく見ると一辺だけわずかに斜めになっている。
「おお」と声が上がった。
「いいじゃん」
四人はそのあと、同じ手順でポスターをあと七枚刷った。切る作業はだんだん手際がよくなっていって、最後の二枚はほとんど迷いがなかった。
八枚のポスターを紙袋に入れて、四人は帰っていった。「ありがとうございました」と四人それぞれに言われた。前髪の女子学生が最後に振り返った。「来年はフチなしで印刷できるプリンターになってるといいですね」。冗談ではない声色だった。
わたしは手を振って、それから自分のデスクに戻った。
PC画面にはExcelの備品管理表が開いたままだった。カッターの貸し出し記録をつけなければならない。日付、時間、貸し出し先。いつもの業務。
入力しながら、さっきのことを考えていた。あの四人のCanvaの画面を思い出した。きれいだった。構図、配色、タイポグラフィ。わたしにはああいうものは作れない。PowerPointなら多少は触れるが、ああいう視覚的な整理をツールひとつでやってのける能力は、わたしにはない。
でも「大きい紙に刷って切る」は知っている。
その二つは優劣ではなく、たぶん、時代が物理のどちら側に立っているかの問題なのだ。あの四人は画面の側に立っていて、わたしは紙の側に立っている。そして学園祭のポスターは、最終的には壁に貼られる。壁は物理だ。画面ではない。どこかの段階で、必ず境界を越えなければならない。
来年の備品購入の申請書に、フチなし印刷対応の機種を入れておこうかと思った。そうすれば「大きい紙に刷って切る」を知らなくても、端まで色のあるポスターを手に入れられる。
十一月になれば学園祭が終わり、廊下のポスターは剥がされて、養生テープの跡だけが残る。あの断面のわずかな斜めも、もう誰の目にも留まらない。
備品管理表のセルを埋め終えて、保存した。次の貸し出し希望者がカウンターに立っていた。手にはUSBメモリ。画面にはCanva。
「すみません、ポスターをコピーしたいんですけど」
わたしは立ち上がった。