宮本隆一は、赤ペンの男だった。
出版翻訳の編集部に三十年。彼の机を通過した原稿は、例外なく朱に染まって返ってきた。一ページに何も書かれていない、ということがない。翻訳者たちは彼のフロアを「処刑場」と呼んだ。本人の耳にも届いていたが、特に気にした様子はなかった。
「ここの『彼女は微笑んだ』……原文は”She allowed herself a smile”だ。微笑んだんじゃない、微笑むことを自分に許したんだ。この一語が抜けると、人物の輪郭がひとつ減る」
こういうことを、三十年、言い続けてきた。
翻訳者が泣いたことも、怒鳴り返してきたこともある。それでも宮本は直したし、直させた。言葉は最後の一文字まで選ぶものだと思っていたし、それを怠った原稿を世に出すことは、読者に対する裏切りだと思っていた。
機械翻訳の導入が決まったのは、四月だった。
経営会議の資料には「翻訳ワークフローの効率化」と書かれていた。宮本は紙をめくりながら、まあそうだろうな、とだけ思った。質の話ではなく、金の話だった。
最初の数か月は、使い物にならなかった。出てくる訳文はどれも日本語の形をしていたが、日本語ではなかった。宮本は赤を入れた。いつも通り、一ページに何行も。
「ほら、これ。機械だろうが人間だろうが同じだよ。結局こっちが直すんだから」
そう言って、部下の前で笑ってみせたこともある。
変化は、半年ほど経ったあたりから始まった。
機械のバージョンが上がった。訳文が、少しだけましになった。少しだけ。それでも宮本の目には十分に粗い訳だったはずだが、彼はここで、ひとつ新しい習慣を身につけた。
プロンプトを自分で書くようになったのだ。
「文芸翻訳として自然な日本語に。直訳を避け、原文の呼吸を再現すること」
こうした指示を入力し、出力を得る。気に入らなければ指示を変える。数回やり取りすれば、そこそこの訳文が出てくる。宮本はそれを下訳として扱い、赤を入れた。
ただ、このとき、彼の赤は、以前より少し減っていた。
本人は気づいていなかった。自分の指示で出てきた文章に、自分の判断がすでに混ざっているという感覚があった。正確に言えば、「自分が方向を与えた言葉」を直す動機は、「他人が選んだ言葉」を直す動機より、いくらか弱い。
宮本はそんなことを考えもしなかった。ただ、以前よりページをめくる速度が上がっていた。
一年が経つ頃には、編集部の風景は変わっていた。
かつて宮本に原稿を渡す日は、翻訳者たちにとって胃の痛む朝だった。今はそもそも、翻訳者が関わる工程が減っていた。宮本が機械で下訳を作り、自分で調整し、自分で仕上げる。その一連の流れの中に、第三者の目はなかった。
ある日、宮本は校了前のゲラを眺めていた。
「雨が降っている街路を、彼は足速に歩いた」
原文は”He hurried through the rain-slicked streets”だった。「雨が降っている街路」は誤訳ではない。だが、rain-slickedが持つ、路面が光っている、濡れた表面が反射している、という映像は、どこにもなかった。
一年前の宮本なら、こう言っていたはずだ。
「降っているんじゃないんだよ。降った後なんだ。雨上がりの道がてらてら光ってる、あの感じ。そ���を落としてどうする」
宮本はそのページに目をやり、数秒止まり、それからページをめくった。
三年目。
後輩の津田が、別件の翻訳原稿を持ってきた。外部の翻訳者が仕上げたもので、宮本のチェックを通す必要があった。
宮本はそれを三十分で返した。赤はほとんど入っていなかった。
津田はエレベーターの中でその原稿をめくり、首をかしげた。二箇所、明らかに助詞がおかしい。一箇所、時制が原文と食い違っている。どれも、かつての宮本が見逃すはずのないものだった。
津田はもう一度原稿を見る。それから、静かに鞄にしまった。
誰にも言わなかった。言ったところで、何をどう伝えればいいのかわからなかった。宮本さんの目が衰えた、とは違う。宮本さんが手を抜いている、とも違う。もっと根本的な何かが、少しずつ、ずれている。そういう感じだった。
五年目の春、宮本はふいに自分の机の引き出しを整理した。
奥から、古い原稿のコピーが出てきた。十年以上前のものだ。全面が赤字で覆われていた。欄外には「このままでは出せない」「原文をもう一度読め」「ここは訳者の怠慢」と、宮本の筆跡で書かれている。
宮本はそれをしばらく眺めた。
よくこんなに直したな、と思った。
懐かしさでも後悔でもない。自分がかつてこんなことに時間をかけていたことが、ただ少し、遠かった。
彼はそのコピーを古紙の束に重ね、引き出しを閉めた。デスクに戻ると、画面にはプロンプトの入力欄が点滅している。宮本はそこに指示を打ち込み、エンターキーを押した。数秒で訳文が現れる。
悪くない、と思った。
赤ペンは、ペン立ての中で、キャップをされたままだった。