四ステージ目。客席の後ろのほうに座っている。満席ではないので、私はここにいる。まあ、賑やかしだ。制作補佐の仕事はほとんどが開演前に終わっていて、受付で当日券を捌いて、お客さんを案内して、客席が落ち着いたら空いている席に座る。開演したら、できることはなにもない。
畠山さんが出ていく。まばらな拍手。でも温かい。
舞台と客席のあいだに暗転はない。畠山さんはいつも地明かりのまま出ていく。演出家が開演前の挨拶をするのがこの劇団のやり方で、それは私が入る前から続いているらしい。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
マイクは使わない。五十席の小屋なら、地声で届く。
「開演に先立ちまして何点かお願いがございます。上演中、スマートフォンなど音の出る機器は電源からお切りください。マナーモードでもバイブレーションが響きますので、できれば電源をお願いします。また、写真や動画の撮影、録音はご遠慮ください」
ここまではどこの劇場でも聞く文言で、畠山さんはこの部分だけやけに滑舌がいい。覚えた文章を読んでいるときの安心感なのだと思う。
「えー、それで、ちょっと余談なんですけど。完売御礼って打とうとしたんですよ、SNSに。チケット完売の、御礼。そしたら変換がおかしくて、寒梅温冷って出まして。寒い梅に、温かいと冷たいで、かんばいおんれい」
客席から小さな笑いが起きる。私も笑う。四回目だけど笑ってしまう。
「いい響きですよね。同じかんばいおんれいなのに字が全然違う。なんか、あの、よくないですか。よくないか。まあ、ともかく。えー、本日はごゆっくりお楽しみください」
畠山さんが袖にはけた。BGMの音量がすこし上がって、客電が落ちた。
この劇団に来た経緯を説明するのは簡単で、大学の同期の友達がここの役者をやっていて、その友達から「制作の手伝い来ない?」と言われたのが四ヶ月前。芝居は観るほうで、やるほうに回る気はなかったのだけど、制作は「やる」のうちに入るのかどうかもよくわからないまま顔合わせに行った。
最初に会ったのは吉岡さんだった。稽古場に使っている公民館の入り口で「はじめまして!」と声をかけられた。目を見て笑って、声が大きくて、ああこの人が回してるんだなと一瞬でわかる人。制作兼役者だと聞いて、どちらかだけでも十分すごいでしょうと思ったけど、吉岡さんの動きを一日見たら、兼ねているというより最初からひとつの動き方なのだとわかった。稽古場の段取りをしながら台詞を確認して、照明さんに連絡を返しながらストレッチをしている。全部が同時に進んでいて、全部が速い。
畠山さんに会ったのは、その日の稽古が始まる直前だった。ふらっと入ってきた。本当にふらっと来た、主宰の入り方ではなかった。私のそばを通りがかって、「あ、今日からの方」と言った。
手を出された。握った。ふわっとしていて、すこし湿っていた。いやではなかった。
「よろしくね」
しみじみと、という形容は変なのだけど、しみじみとしか言いようがなかった。初対面の相手に言う「よろしく」ではなくて、もっと長い時間を一緒に過ごしたあとに出てくるような重さがあった。五秒くらいの出来事だったのに、帰り道にまだ手のひらに感触が残っていて、友達に「ねえ、あの畠山って人なんなの」と訊いたら「たらされたでしょ」と笑われた。
たらされた。たしかにそうかもしれない、と思った。なにに、とは言えないまま。
畠山さんの芝居は、芝居というか、畠山さんが書いて畠山さんが演出をつけた舞台は、説明が難しい。
おもしろい。それは観ていてわかる。役者がいい。吉岡さんが特にいい。場面ごとの手触りがちゃんとある。笑えるところでは笑えるし、息が詰まるところもある。
ただ、終わったあとに「何の話だった?」と訊かれると、うまく答えられない。
最初の公演のときもそうだった。カーテンコールのあと、隣に座っていたお客さんが連れに「よかったねえ」と言っていた。連れのほうが「うん。……で、あれってどういうこと?」と返していた。二人はしばらく首を傾げて、でもどちらも不満そうではなかった。
畠山さんは終演後にSNSをずっと見ている。感想を検索している。長い考察が来ると、椅子に深く座り直して「ありがたいよ。俺こういうの一番好き。ずっと読んでられる」と言う。それは楽屋で着替えをしながらで、吉岡さんがとなりで衣装を畳んでいる。
「ちゃんと見てくれたってことじゃん」と畠山さんは言った。
嬉しそうだった。本当に嬉しそうで、私はその横顔を見ながら、ああこの人は、わからなかったと言われることを恐れていないんだと思った。わからないまま考えてくれたことのほうが嬉しい人なのだと。
吉岡さんは衣装を畳む手を止めないまま「よかったね」と言った。その声はとても普通で、とても優しかった。思ったことが他にもあったのかもしれないけれど、吉岡さんはそれをきちんと畳んで、衣装と一緒にしまったように見えた。
五ステージ目、千秋楽。
完売だった。私の席はない。受付を閉めたあと、客席の脇にパイプ椅子をひとつ出して座った。いつもは客席から正面で見ている畠山さんの挨拶を、今日は横から聞く。
畠山さんが出ていく。拍手。いつもよりすこし厚い。
「えー、本日は千秋楽です。あの、最終日って言ったほうがいいのかな。今日で終わりです。お足元の悪い中お越しいただきまして、ありがとうございます」
間。
「いつものお願いですが、スマートフォンなど音の出る機器は電源からお切りください。撮影・録音もご遠慮ください。それと、えー、ありがたいことに本日は完売となっておりまして、お席が窮屈かもしれませんが、譲り合ってご着席ください」
ここで拍手が起きた。客席の正面で聞くのと、横から聞くのとでは、拍手の形が違う。正面だと包まれるように来る。横からだと、波が通り過ぎていくのが見える。畠山さんは少し黙って、それから続けた。
「寒梅温冷の話、毎回してるんですけど。あの、覚えてますか、初日にも来てくださった方。あ、いる。ありがとうございます。字が寒い梅に温かい冷たいで、完売御礼とは全然違う字なんですけど、なんか、いい響きだなってずっと思ってて」
いつもより少し長く喋っている。千秋楽だからかもしれない。
「寒い時期に咲く梅と、温かいと冷たいが並んでて。なんか、そういうものだなって。冷たいところで咲くのと、温かくするのとが、一緒にあるっていうか。うまく言えないですけど。いつもうまく言えないんですけど」
客席が少し笑う。
「えっと。あの、本当にありがとうございます。ごゆっくりお楽しみください」
横から見ていると、畠山さんが袖にはける直前の表情が見えた。客席からは見えない角度だったと思う。笑っているような、泣きそうな、どちらとも言えない顔だった。
楽屋に戻った畠山さんは、しゃがみ込まなかった。立ったまま、壁に背中をつけて、天井を見ていた。
「完売だって。すごいね」
誰にともなく言った。吉岡さんはもう衣装のまま小道具の位置を確認していて、「千秋楽だしね」と背中を向けたまま返した。
そうかな、と畠山さんは言って、水を飲んだ。手が少し震えていた。緊張ではないように見えた。
完売御礼。千秋楽にやっと、五ステージのうちの一回だけ、その四文字が成立した。畠山さんは注意事項と同じ調子でそれを読み上げて、客席が拍手したとき、少し黙った。嬉しかったのか、戸惑ったのか、正面からでは見えなかったはずだ。でも今日は横にいたから、あの顔が見えた。
BGMの音量がゆっくり上がって、客電が落ちていく。五回目の、最後の開演。
舞台が明るくなって、幕が開く。