1
ハンドルを握る手が湿っている。
「この先の角を曲がったところで待ってて」
妻が降りたのは三十秒前だ。いつもの言い方、いつもの段取り。妻が買い物をしている二十分かそこらのあいだ、自分はこの車を預かる。エンジンを切って、シートを少しだけ倒して、スマホをいじりながら待つ。それだけのことだ。
それだけのことなのに、毎回、胃のあたりがきゅっと詰まる。
角を曲がる。それだけだ。ウインカーを出して、速度を落として、曲がる。免許は持っている。二十年前に取った。取っただけだ。そのあとは妻がいつも運転席にいて、自分はずっと助手席の住人だった。道を覚える必要もなかった。ナビを読む必要もなかった。ただ座って、窓の外を見て、たまに「あ、あの店潰れたね」などと言っていればよかった。
ウインカーを出す。速度を落とす。
角を曲がった先に、白い車が停まっている。
宅配業者のバンだ。よく見る、あの四角い、荷室の大きいやつ。後ろのドアが半開きになっていて、中に段ボールが積まれているのが見える。いつもならもっと奥、駅のロータリーの手前あたりに停めているのを見かける。あのへんなら二台分のスペースがある。邪魔にならない。
今日はそこじゃない。
角を曲がってすぐ、五メートルも行かないところに消火栓がある。赤い標識。その先に月極駐車場の入り口。バンはその二つのあいだ、というか、二台分のスペースのど真ん中に、どちらにも寄らない中途半端な位置に鎮座していた。
前に入れない。消火栓の横も無理だ。駐車場の入り口も塞げない。
──どこに停めろと。
バンの運転席から、二人降りてくる。先に降りたのは五十がらみの男で、作業着の袖をまくっていて、歩き方に迷いがない。すこし遅れて、若い男が助手席側から出てきた。こちらは制服がまだ糊が利いている感じで、端末を胸の前に抱えるようにして、先輩のあとを小走りについていく。
新人さんが停めたのかな、とふと思う。そうだとしたら先輩が直してやればいいのに、と思う。でもまあ、きっとそれどころじゃないのだろう。荷物がある。時間がある。新人に教えることが山のようにある。たかが路上の、たかが数分のことだ。
自分だって、たかが数分待てばいい。
消火栓を避けて、角のぎりぎりまで寄せる。曲がり角の直後だからほとんど死角だ。よくない。わかっている。でもここしかない。消火栓の前は論外だ。駐車場の入り口も塞げない。消去法で残ったのがここだった。
エンジンを切る。サイドブレーキを引く。ミラーで後ろを確認する。
大丈夫。たぶん。
短く、鋭く、頭の芯まで届く、怒りの滲んだクラクションの音。大丈夫じゃなかった。バックミラーに、曲がってきた車のフロントガラスが映っている。運転席の男が口を動かしている。声は聞こえない。窓を閉めているから。でも唇の形でわかる。こんなところに停めるんじゃねえよ。
心臓が跳ねる。手が震える。ごめんなさい、すぐ動かします、と思うのだけれど、口が動かない。動かしたところでどこに行けばいい。前は宅配のバン。横は消火栓。うしろは今クラクションを鳴らした車。
袋小路だ。道路の上で、袋小路に嵌まっている。
なんとかハンドルを切って、消火栓の先、駐車場の入り口の横あたりまで車を進める。前のバンとの隙間に鼻先をねじこむようにして、なんとか角からは離れた。
でも今度は駐車場の入り口にかかっている。
エンジンを止める前に、背後でドアの閉まる音がした。バックミラーに映る。さっきとは別の車から、男が降りてきている。こちらに向かって歩いてくる。顔が、怒っている。
「入れないだろうが」
窓を開ける指が震えた。
「すみません、すぐ動かし……」
「じゃあ動かせよ」
動かしたい。動かしたいのだ。でもどこに。前は宅配のバン、左は駐車場、右は対向車線、後ろはこの男の車。ぜんぶ塞がっている。どこにも行けない。免許を持っているのに。車のキーを預かっているのに。大人なのに。
何も、できない。
「すぐに……」
そう言いかけたとき、前方で宅配のバンが動いた。新人を乗せた先輩が、何事もなかったかのようにバンを発進させて、角の向こうに消えていく。
空いたスペースに、ようやく車を入れる。
エンジンを切る。額に汗が浮いている。膝が笑っている。バックミラーの中で、男が首を振りながら自分の車に戻っていく。駐車場から出ようとしていた車が、ようやく動き始める。
十分もかかっていない。たぶん五分だ。たった五分。
スマホを取り出す。妻にLINEを打つ。「停められた」。それだけ打って、送信する。
シートを倒す。目を閉じる。まだ心臓がうるさい。
妻が戻ってきて「おつかれ」と言うまでの十五分間、ずっと、心臓の音を聞いていた。
2
端末の画面にピンが立っている。赤いピンが八つ。このエリアだけで八つ。
時間指定が三件。いちばん早いのが十時半。今、十時十二分。角を曲がって、三軒目のマンションの二階。それだけのことだ。端末にはそう表示されている。配達先までの距離、二十メートル。推定所要時間、三分。三分。
でも杉本さんの運転する助手席から見る三分と、自分がひとりでやる三分はぜんぜん違う距離だということを、この二週間で嫌というほど知った。
「ここでいい」
杉本さんが言う。ここ。ここってどこだ。左に曲がった直後で、前方に赤い標識が見える。消火栓。その先にコインパーキングじゃない、月極の、ゲートのない駐車場。さらに先に駅のロータリーへの入り口。
いつもの場所、もっと奥、ロータリーの手前に停めるんじゃなかったか。そこなら広い。二台分ぐらいの、何も気にしなくていいスペースがあった。先週、杉本さんが停めたのを見た。
でも今日は杉本さんが「ここ」と言った。
聞けばよかった。もっと奥じゃないんですか、と。でも聞けない。聞いたら、そのぐらい自分で判断しろ、と言われそうだった。杉本さんは怒る人じゃない。声を荒らげたことは一度もない。ただ黙る。こちらが判断を間違えたとき、何も言わずに正解をやってみせる。その沈黙のほうがよっぽどこたえる。
ハンドブレーキを引く。ギアをパーキングに入れる。ミラーを確認する。後ろに車はいない。大丈夫だ。
大丈夫、と思った自分が本当に大丈夫かはわからない。
「二〇三。田中さん。サインはいらないって先に電話してあるから、置いてインターホン鳴らすだけでいい」
杉本さんがスライドドアを開けて荷室に入る。段ボールをひとつ引っ張り出して、自分に渡す。重い。片手じゃ持てない。
「行ってきます」
「ああ」
端末を胸に抱えて小走りに杉本さんのあとをついていく。マンションのエントランス。オートロックはない。階段を上がる。杉本さんの足が速い。一段飛ばし。自分は段ボールで前が見えなくて、一段ずつ慎重に上がる。
二〇三。ドアの前に段ボールを置く。インターホンを押す。ピンポーン。返事がない。もう一度。ピンポーン。返事がない。杉本さんを見る。
「出ないこともある。置き配で連絡入ってるから、そのまま下ろせばいい」
端末を操作する。配達完了。写真を撮る。指が滑る。二回撮り直す。
次。同じマンションの三〇五。
階段を上がる。今度は自分のほうが先に行こうとして、踊り場で杉本さんとぶつかりそうになる。「すまん」と言ったのは杉本さんのほうだった。自分が悪いのに。
三〇五はすぐ終わった。サインをもらって、端末に入力して、完了。杉本さんが何も言わなかった。つまり、ミスはなかったということだ。たぶん。
階段を降りる。車に戻る。
車の後ろに、別の車が停まっていた。
角の、ほとんど曲がり角の直後、ぎりぎりのところに。こっちの車をよけて、なんとか停めたらしい。見覚えのない白い軽自動車。運転席に人がいる。ハンドルを握ったまま、前を見ている。
ああ、邪魔だったかな、と思った。自分の車が、あの位置にあったから。もっと奥に停めていたら、この人は困らなかったかもしれない。
でも杉本さんが「ここ」と。
「乗れ」
杉本さんがもう運転席に座っている。自分は助手席に乗り込む。エンジンがかかる。バンが動き出す。
バックミラーは杉本さんの位置からしか見えない。
白い軽自動車がどうなったのか、確認できないまま角を曲がった。
次のピンは六百メートル先。画面の上に、十時二十一分。時間指定の十時半まで、あと九分。
大丈夫だ。
たぶん。
3
コンビニのコーヒーがぬるい。
買ったのは二十分前だ。レジで「ホットのLで」と言って、紙カップを受け取って、車に乗って、一口飲んで、そこから信号に三回つかまって、駅前の道に入って、もう一口飲もうとしたときにはぬるくなっていた。
こういうことの積み重ねだ。大したことじゃない。コーヒーがぬるいだけだ。信号が赤だっただけだ。妻からのメッセージに「今日も遅い?」と書いてあっただけだ。「?」がついているだけで責めているわけじゃない、たぶん。上の子の授業参観が来週だという話を昨日したばかりで、それは「行くよね?」という確認の「?」であって、「また行けないの?」の「?」ではない。
たぶん。
駅前のロータリーの手前を左に曲がる。この道は裏道で、突き当たりの月極駐車場の横を通って住宅街に抜けられる。十時二十五分。十時半に得意先に顔を出す約束だ。五分あれば着く。余裕だ。
余裕じゃなかった。
角を曲がった先に、車が二台いた。手前にいるのは白い軽自動車で、曲がり角のほとんど直後に停まっている。その前に宅配のバン。バンの位置のせいで軽自動車が奥に入れなかったんだろう、道の左側に不自然に二台が連なっている。
右側、対向車線の幅は、ぎりぎり通れるか通れないか。
クラクションを鳴らす。短く。
白い軽の運転席に人が見える。こっちを見た。動かない。
なんでそこに停めるんだよ。
口が勝手に動いた。声には出していない。出したつもりはなかった。でも口の形ではっきり言ってしまった。こんなところに停めるんじゃねえよ、と。相手に聞こえていないことを祈る。聞こえていてもいなくても、大人げないことを言った自分に少し腹が立つ。
軽自動車がのろのろと前に動いた。消火栓の先、駐車場の入り口のあたりに。
通れるようになった。アクセルを踏む。
踏んだところで、ルームミラーに映ったものに気づく。後ろから来た車が、軽自動車が空けた場所に停めようとしている。駐車場の出口のあたりで。
ああ、あれじゃ月極の車が出られない。
でももう関係ない。自分はこの道を抜けて、十時半に得意先に着けばいい。コーヒーを一口飲む。ぬるい。当たり前だ。
百メートルほど走ったところで、バックミラーに人影が見えた。後ろに停まった車から誰かが降りて、軽自動車のほうに歩いていく。
何か言っているのだろう。身振りでわかる。
かわいそうに、と思った。
思って、すぐに、さっき自分も口を動かしたことを思い出した。あの軽自動車の人から見たら、自分とあの男は同じだ。事情も知らないくせに文句をつけてくる、通りすがりの人間だ。
信号が赤になる。四回目の赤信号。
コーヒーは完全に冷めていた。
十時二十八分。
まだ間に合う。
ハンドルを握り直す。
妻のメッセージには、まだ返していない。
4
停められた。
画面の上でその三文字がぽつんと光っている。
三文字。「停められた」。いつもそうだ。この人のLINEはいつも短い。「着いた」「買えた」「停められた」。報告というより、確認。自分に、というよりは自分自身に向けて書いている確認。大丈夫だった、できた、という。
改札を出て、ドラッグストアの前を通り過ぎながら既読をつける。返事は打たない。打たなくても伝わる。二十年もそうしてきた。あの人が角を曲がったところで車を停めて、エンジンを切って、シートを倒して、目を閉じて、自分が戻ってくるのを待っている。いつものように。
ペーパードライバーの夫を待たせて買い物をする。世間的にはたぶん逆だ。でもうちはずっとこうで、これがうちのかたちだった。
免許を取ったばかりの頃、あの人は嬉しそうだった。二人でどこにでも行けるね、と言った。実際には、二人でどこにでも行ったのは最初の半年だけ。あの人は渋滞が怖いと言い、高速が怖いと言い、車線変更が怖いと言い、そのうち「今日は君が運転して」と言わなくなった。
怒ったことはない。呆れたことは、少しだけ、ある。でもそれは初めの数年だけで、いつからか、これがあの人なんだと思うようになった。運転はしない。できるけどしない。そのかわり、車を預けたら文句も言わずに待っている。シートを倒して。目を閉じて。自分が戻ってくるまで。
夫婦のかたちなんて人の数だけある。うちはこれでいい。
レジに並ぶ。日焼け止め、ボディソープの詰め替え、あとドリンクを二本。一本はブラック。もう一本はカフェオレ。ブラックは自分ので、カフェオレはあの人の。あの人は苦いものが飲めない。コーヒーも、ビールも、ゴーヤも。
レジの画面に合計が出る。袋はいらない。エコバッグに入れる。
店を出て、角を曲がる。
車が見える。いつもの場所ではない。いつもより手前、消火栓の先のぎりぎりのところに停まっている。
近づくと、あの人が目を閉じている。でも寝ているんじゃない。唇が少しだけ開いていて、呼吸が浅い。緊張のあとの脱力。この顔を知っている。渋滞にはまったあと。狭い駐車場から出したあと。何かが、あったあとの顔。
助手席のドアを開ける。
「おつかれ」
目を開ける。少しだけ笑う。何も言わない。
カフェオレを渡す。受け取る手が、ほんの少しだけ震えていることに気づく。
何があったか聞かない。聞かなくてもわかる。わからなくても、聞かない。聞いたら話さなきゃいけなくなる。話したらまた思い出す。思い出したらまた手が震える。
だから黙ってシートベルトを締めて、「じゃあ帰ろっか」とだけ言う。
エンジンがかかる。
ハンドルを握るあの人の手を、バッグの中の日焼け止め越しに、エコバッグの底からそっと触れる。
指先がまだ少し冷たい。
それだけ確かめて、手を引く。
窓の外を見る。角を曲がる。
いつもの道。いつもの帰り道。