語彙
「あれ取って」
戸塚がソファから手を伸ばしている。指の先には何もない。テーブルの上にはマグカップとリモコンとペンと文庫本がある。
あれ、では通じない。通じないはずなのに、わたしにはわかってしまう。戸塚の頭のなかにマグカップの映像がぼんやり浮かんでいるのが見える。取っ手の位置まで。中身がぬるくなっていることまで。
マグカップを渡した。戸塚は当然という顔で受け取った。
「最近、語彙力がやばい」
戸塚は一口飲んでからこちらを見た。
やばいって何が、と怪訝な顔をする。
「おまえ。あれそれどれで全部通じると思ってる」
戸塚は首を傾げた。本気で心当たりがないらしい。頭のなかを覗くと、自分の語彙力について特に疑問を持っていなかった。わたしが読み取ってくれるから言語化の必要がない、という前提がもう骨の髄まで染みている。
「頭のなか読むの禁止な。今日から」
戸塚が声を裏返した。は、と一音だけ。
「自分の口で喋れ。言葉を使え。人間だろ」
戸塚は三秒ほどこちらを見つめてから、ソファの背に頭を預けた。天井に向かって、あー、と意味のない声を出した。
手順
わたしが他人の思考を読めるようになったのは十二のときで、最初に読んだのは母の考えだった。晩御飯の献立を迷っている最中の、とりとめのない思考。肉じゃがの材料が足りるかどうか。じゃがいもが残っているかどうか。あと牛乳。鮮明だった。
能力の使い方は誰にも教わらなかった。教わりようがない。ただ、知識としては持っている。人の心を操作する手順を。読むだけでなく、その先にあるものを。
普通の人間でも時間をかければ洗脳することは可能だ。手順は明快で、まず恐怖を与える。次に存在意義を破壊する。最後に愛を与える。恐怖で孤立させ、自分が何者でもないと思い込ませ、そのうえで唯一の味方として差し出す。不安で孤立している人間が陥りやすい傾向にある。
読心能力があれば、その精度は桁違いに上がる。相手がいま何を恐れているか、何に縋りたいか、全部見えるのだから。相手の認知の隙間に、ぴたりとはまる言葉を置くことができる。バイアスに適合すれば人は信じてしまう。結果、信じたいものしか信じなくなる。
その手順を知識として持っていて、実行する能力も持っていて、それでもやらない。やらないのは、倫理観があるからだ。愛情を与えられて育ったからだ。普通に叱られ、普通に褒められ、晩御飯の献立を迷うような親のもとで育ったから。
戸塚はそのことを知っている。わたしが何をできるか、全部知ったうえでここにいる。
線
戸塚と組んで三年になる。
最初は仕事上の関係だった。戸塚は交渉が巧い。読心に頼らず、表情と声色と沈黙の長さだけで相手の出方を読む。わたしが頭のなかを覗いて戸塚の耳に囁く必要がないくらい、たいていのことは戸塚ひとりで片がつく。
だからこそ気づくのが遅れた。戸塚の語彙が目に見えて減ってきたことに。
最初は便利だったのだと思う。考えるだけでわたしに伝わる。いちいち言葉を選ぶ手間がない。それは確かに楽だ。けれど使わない筋肉は痩せる。言葉も同じだ。選ばなくなれば選ぶ力が衰える。戸塚の頭のなかはいまも豊かだ。映像も感情も、質感を持って立ち上がってくる。ただそれを音声に変換する回路が、少しずつ錆びている。
線を引かなければいけない、と思った。
「読むの禁止って、おまえそれ利き手縛るようなもんだろ」
だから禁止にする、と答えた。意味がわからない、と戸塚が眉を寄せる。
「おまえの語彙力を守るためだよ」
戸塚は目を瞬いた。頭のなかに、守る、という単語が反響しているのが見えた。見えてしまった。禁止にすると言ったそばから読んでいる。この能力はスイッチで切れるようなものではない。聞こえてくるものは聞こえてくる。
ただ、聞こえたことを行動に反映しない、という選択はできる。
「いまおまえ、読んだだろ」
戸塚の声には咎めるような響きはなかった。確認しているだけだ。
「読んだ。でも読んだことは言わない」
それで成り立つのか、と戸塚が訊く。
「成り立たせる」
戸塚はマグカップを両手で包んだ。冷めた珈琲の水面を見つめている。頭のなかに浮かんでいるのは不安でも不信でもなく、もっと淡い色をした何かだった。読めるけれど、名前は知らない。戸塚自身もたぶん知らない。
「じゃあ、いまからおまえに何か言う」
どうぞ、と促した。先に読むなよ、と戸塚が釘を刺す。
「読まないとは言ってない。読んでも反応しないと言った」
戸塚は短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「おまえのそういうとこ、尻引っ叩いてやりたくなる」
褒め言葉として受け取る、と言ったら、褒めてない、と戸塚が低く返した。
頭のなかでは、褒めていた。
倫理
夜、並んで歩いているときに戸塚が言った。
「おまえさ、おれを洗脳しようと思えばできるんだろ」
街灯の下を通り過ぎる。戸塚の影がアスファルトに伸びて、わたしの影と重なって、離れる。
「できる」
したことは。戸塚の声が短い。
「ない」
なんで、と重ねてくる。
「普通に育ったから」
戸塚は足を止めなかった。横顔は街灯の明かりで半分だけ照らされていて、残りの半分は暗い。頭のなかは澄んでいた。嘘を言っているかどうか確認しているのではなく、ただ聞いている。
「愛があれば自発的に動く。洗脳は自発性を奪う。だからやらない」
「へえ」
「理屈じゃないよ。やろうと思ったことがないだけ」
戸塚は信号が赤に変わるのを見て立ち止まった。交差点の向こうに人はいない。深夜だった。渡ってもよかったが、戸塚は律儀に信号を守る。
「おれは、おまえのこと信用してるけど」
赤い光が戸塚の目に映っている。
「それって信用してるんじゃなくて、おまえに読まれてるからそう思わされてるだけかもしれないだろ」
かもしれない、と答えた。否定しないんだ、と戸塚が呟く。
「証明できないことを否定しても意味がない」
信号が青に変わった。戸塚が歩き出す。わたしも歩く。半歩遅れて、戸塚の後頭部を見ている。短く刈り上げた襟足の形。
「でも読んでるんだろ、いま」
読んでる、と頷いた。なんて、と戸塚が促す。
「信用してる、って思ってる。本気で」
戸塚の足が一瞬だけ止まりかけて、すぐにまた歩き出した。
「それ言うの禁止だろ」
読むのが禁止なだけで、読んだことを言うのは禁止にしてない。そう返すと、屁理屈、と戸塚が低く言った。
声は低かったが、頭のなかは笑っていた。声と思考が一致しない人間はこの世に山ほどいる。戸塚の場合は、声が追いつかないだけだ。思考のほうが先に走って、言葉が後からよろめきながらついてくる。だから語彙が足りなくなる。
でも今夜の戸塚は、言葉で言った。読ませるのではなく、自分の声帯を震わせて、空気を介して、わたしの鼓膜に届けた。
信用してる。
わたしはそれを読んだのではなく、聞いた。聞いたということは、戸塚がそうしようとして、そうしたということだ。筋肉を使った。声帯を鳴らした。言葉を選んだ。
読心能力がなくても届くように。
わたしの能力がもし明日なくなっても、同じことを言えるように。
それが信用するということだと、戸塚は頭のなかでは考えていなかった。考えるまでもなかったのだろう。愛情を与えられて育った人間の行動は、いつもこうだ。理屈を経由しない。ただそうする。