デスクの横に無地のTシャツが広げてある。FULCRUMのツアー用。その上に、ロゴを二種類の大きさで出力した紙が載っている。背中に大きく入れるか、左胸に小さく落とすか。去年のツアーは背面だった。同じことをやれば安牌だが、それは仕事ではない。
幡野は紙を左胸の位置にずらして、一歩引いて見る。小さいロゴを成立させる方が技術がいる。着る人間が街で恥ずかしくないものを作る。それだけが、いつも最初に決めることだった。
イヤフォンからはネモフィラの新譜が流れている。クライアントの曲を作業BGMにするのは半分仕事で半分癖だ。モニターにはネモフィラのキーチェーン用のカラーパレットが開いたまま残っている。ボーカルの声がサビで跳ねる。その声の質感を色に変換する作業は、あとで戻る。
鶴見からメッセージが入る。
《フルクラ追加アイテムの件、来週ラフいける?》
幡野はTシャツから手を離して返す。
《内容による。何増える》
《まだ確定してない。決まったら投げる》
《了解》
三往復で終わる。十年やっていると、無駄な前置きが消える。敬語も消える。残るのは要件と、要件の隙間にある信頼だけだ。
幡野はTシャツの前に戻る。紙を左胸に決めて、テープで仮留めした。
ネモフィラのキーチェーンは三案出した。バンドロゴをあしらったもの、ジャケットのイラストから抜いたもの、ネモフィラブルーの単色にメンバーの手書き文字を入れたもの。幡野はどれが来てもいいように作ったが、個人的には三案目が好きだった。
返事は翌日の昼に来た。ボーカルからだった。
《三つ目めっちゃ好きですこれでいきたい》
マネージャーを経由していない。写真を見て、すぐ送ってきたのだろう。そういう距離の現場だった。
《ありがとうございます。では三案目ベースで詰めますね》
そのあと数日、色味の微調整を何度かやりとりして、キーチェーンの入稿データが固まった。手離れのいい仕事だった。デザイナーが出したものに対してちゃんと反応があり、反応に根拠がある。好きだから好き、ではなく、好きなものが何かを本人がわかっている。
入稿の翌週、ボーカルからまたメッセージが来た。
《幡野さん、このキーチェーンのデザインでスマホグリップって作れたりしますか?メンバーで話してて、これ持ち歩きたいねってなって》
幡野は少し考えてから返した。
《できますよ。キーチェーンとは素材が変わるので、工場にスケジュールと金額あたってみますね》
《お願いします!予算はまた相談で》
見積もりは三日で出た。ネモフィラの規模なら、幡野が直接工場とやれる。間に何人も挟まない分、話が早い。金額を伝えると、ボーカルからは「メンバーに共有しますね」と返ってきて、翌日にはGOが出た。
反応が速いのは、このバンドがグッズを他人事にしていないからだ。自分たちが好きだと思えないものは出したくない。その基準がはっきりしているから、迷う工程がない。
鶴見から追加アイテムの詳細が来たのは、ネモフィラのグリップを工場に発注した翌日だった。
《アクスタ追加。ランダム6種。ボーカル2種、他メンバー各1種》
幡野はメッセージを読んで、しばらく画面を見ていた。
《ランダムにするの》
《上が決めた。印刷の都合もある》
《フルクラのファン、ランダムで買うかね》
《俺に聞くなよ》
鶴見の返事は速かった。速いということは、同じことを考えていたということだ。
電話に切り替えたのは鶴見の方からだった。
「ボーカル比率高めにしろって言われてんだよ。顔がいいから女の人は全員顔ファンだろって。あんまざっくりくくるなよって話なんだけど」
「女の人は可愛いからってなんでもいいわけじゃないし」
幡野は、先月たまたま入ったカフェのことを思い出していた。隣のホールでやっていた別のアーティストのライブに行くらしい女性が、アクスタをケーキの横に立てて写真を撮っていた。丁寧にアクスタの角度を調整して、光の入り方を気にして、何枚も撮り直していた。あれは顔が好きだから買ったんじゃない。もっと別の何かだ。でもそれを上に伝える言葉を、幡野は持っていない。
「まあ、しょうがねえか」
鶴見が言った。しょうがない、というのは同意ではない。ここが限界だ、という印だった。鶴見は会社の人間だから、上が決めたことをひっくり返せる回数が限られている。幡野はフリーだから理論上は断れる。断って、次の仕事がなくなる自由がある。
「データ送るわ。素材写真どれ使うかも指定入れとく」
「了解。ボーカル2種の差分、どう分ける?」
鶴見は一拍置いてから答えた。
「ポーズ違いでいいと思う。衣装まで変えると金かかるから通らない」
「わかった」
電話が切れて、幡野はモニターに向き直った。ネモフィラのグリップの色校データが開いたまま残っていた。ネモフィラブルーの上に白い手書き文字が載っている。さっきまで触っていた、手応えのある仕事だ。
幡野はそのウィンドウを最小化して、フルクラのフォルダを開いた。
十一月の三週目は、朝と午後で手が別の仕事をしていた。
午前中、工場から届いたネモフィラのグリップのサンプルを検品した。色は指定通り出ている。ネモフィラブルーは画面と実物で差が出やすい色だったが、工場との三回のやりとりで追い込んだ甲斐があった。サンプルの写真を撮ってボーカルに送ると、十分もしないうちに返事が来た。
《かわいい!!触り心地どうですか?》
《滑りにくくていいですよ。実物もお送りしますね》
《楽しみです》
写真を撮ったグリップをデスクの端に置いて、幡野は椅子を回してモニターに向き直った。
午後はフルクラのアクスタだった。ボーカルの素材写真を二枚並べて、ポーズ違いの差分を作る。背景を変え、ロゴの位置を変え、それぞれが別の商品に見えるように調整する。同じ人間の同じ顔を、違うものに見せる作業だ。
一種類作るのに必要な工程は、ネモフィラのグリップとそう変わらない。変わらないのに、手が重い。ボーカルの写真の切り抜きを配置しながら、これを買った人がランダムの封を開けて、同じ絵が出てきたときの顔を想像する。交換相手をSNSで探す手間を想像する。その手間を最初から発生させない方法はあるのに、選ばれなかった。
幡野は想像を止めて、ペンツールに持ち替えた。背景のグラデーションを0.5ポイントずらす。差分とは、こういう仕事のことだった。
両方のバンドのツアーが始まっても、幡野の日常は変わらなかった。納品した仕事は手を離れる。あとは別の案件のデータを作りながら、たまにSNSを開くだけだ。
フルクラの初日、物販の写真が流れてきた。会場の外に並ぶ列。幡野がデザインしたTシャツを着ている人がすでにいる。去年のツアーのものだ。今年のTシャツも、ああやって来年着てくれる人がいるだろうか。
アクスタの開封動画も上がり始めた。封を切って、中身を確認して、歓声を上げる人がいる。無言でもう一枚買いに戻る人もいる。「ボーカル被った、交換求む」というポストがいくつか目に入った。幡野はそのポストに何も思わないようにして、スクロールした。
鶴見のストーリーに打ち上げの写真が上がったのは、ツアー三日目の夜だった。スタッフが何人か写っている。一人が幡野のデザインしたスタッフパーカーを着ていた。ビールを持って笑っている。幡野はその写真を数秒見てから閉じた。
自分が作ったもので誰かの顎が動いている。足が動いている。枕がある。全部幡野が作ったグッズの売上から出ている。でも幡野にその写真の場所の住所はわからないし、そこに自分の席はない。それはいつものことだった。いつものことだから、わざわざ考えない。
翌日、ネモフィラのボーカルのインスタにストーリーが上がった。カフェのテーブルの上に飲みかけのラテがあって、その横にスマホが写っている。スマホの背面に、幡野がデザインしたグリップがついていた。ツアー中に使っている。商品として見せているのではなく、ただ日常の中にあった。
幡野はスクリーンショットを撮らなかった。撮る必要がなかった。見ればわかることだった。自分が作ったものがちゃんと届いている。届き方が正しい。それだけでよかった。
ツアーが折り返しを過ぎた頃、ネモフィラのマネージャーからメールが来た。
「グリップの件ですが、SNSでファンの方からの反応がかなり良くて、受注生産で追加販売できないかという話が出ています。メンバーも乗り気です。また、次のツアーで別カラーのバージョンも作りたいという声がメンバーから上がっていまして、幡野さんにご相談できればと」
幡野はメールを二度読んだ。
ランダムにしなくても売れている。選んで買ったものを、人が日常で使っている。それを見たファンがまた欲しいと思っている。何も複雑なことはない。いいものを作って、届けて、届いた。それだけの話が、なぜ片方の現場では成立して、もう片方では成立しないのか。
幡野はメールに返信した。
「ありがとうございます。受注生産、対応できます。別カラーの件も含めて、一度ラフを起こしてお送りしますね」
送信してから、デスクの横を見た。FULCRUMのアクスタのデータが入ったフォルダが、モニターの端に最小化されたまま残っている。
幡野はそのアイコンを数秒見て、それからネモフィラの新しいカラーパレットを開いた。