2026.06.07

差分

サイト限定

4,062文字 約7分

デスクの横に無地のTシャツが広げてある。FULCRUMのツアー用。その上に、ロゴを二種類の大きさで出力した紙が載っている。背中に大きく入れるか、左胸に小さく落とすか。去年のツアーは背面だった。同じことをやれば安牌だが、それは仕事ではない。

幡野は紙を左胸の位置にずらして、一歩引いて見る。小さいロゴを成立させる方が技術がいる。着る人間が街で恥ずかしくないものを作る。それだけが、いつも最初に決めることだった。

イヤフォンからはネモフィラの新譜が流れている。クライアントの曲を作業BGMにするのは半分仕事で半分癖だ。モニターにはネモフィラのキーチェーン用のカラーパレットが開いたまま残っている。ボーカルの声がサビで跳ねる。その声の質感を色に変換する作業は、あとで戻る。

鶴見からメッセージが入る。

《フルクラ追加アイテムの件、来週ラフいける?》

幡野はTシャツから手を離して返す。

《内容による。何増える》

《まだ確定してない。決まったら投げる》

《了解》

三往復で終わる。十年やっていると、無駄な前置きが消える。敬語も消える。残るのは要件と、要件の隙間にある信頼だけだ。

幡野はTシャツの前に戻る。紙を左胸に決めて、テープで仮留めした。

ネモフィラのキーチェーンは三案出した。バンドロゴをあしらったもの、ジャケットのイラストから抜いたもの、ネモフィラブルーの単色にメンバーの手書き文字を入れたもの。幡野はどれが来てもいいように作ったが、個人的には三案目が好きだった。

返事は翌日の昼に来た。ボーカルからだった。

《三つ目めっちゃ好きですこれでいきたい》

マネージャーを経由していない。写真を見て、すぐ送ってきたのだろう。そういう距離の現場だった。

《ありがとうございます。では三案目ベースで詰めますね》

そのあと数日、色味の微調整を何度かやりとりして、キーチェーンの入稿データが固まった。手離れのいい仕事だった。デザイナーが出したものに対してちゃんと反応があり、反応に根拠がある。好きだから好き、ではなく、好きなものが何かを本人がわかっている。

入稿の翌週、ボーカルからまたメッセージが来た。

《幡野さん、このキーチェーンのデザインでスマホグリップって作れたりしますか?メンバーで話してて、これ持ち歩きたいねってなって》

幡野は少し考えてから返した。

《できますよ。キーチェーンとは素材が変わるので、工場にスケジュールと金額あたってみますね》

《お願いします!予算はまた相談で》

見積もりは三日で出た。ネモフィラの規模なら、幡野が直接工場とやれる。間に何人も挟まない分、話が早い。金額を伝えると、ボーカルからは「メンバーに共有しますね」と返ってきて、翌日にはGOが出た。

反応が速いのは、このバンドがグッズを他人事にしていないからだ。自分たちが好きだと思えないものは出したくない。その基準がはっきりしているから、迷う工程がない。

鶴見から追加アイテムの詳細が来たのは、ネモフィラのグリップを工場に発注した翌日だった。

《アクスタ追加。ランダム6種。ボーカル2種、他メンバー各1種》

幡野はメッセージを読んで、しばらく画面を見ていた。

《ランダムにするの》

《上が決めた。印刷の都合もある》

《フルクラのファン、ランダムで買うかね》

《俺に聞くなよ》

鶴見の返事は速かった。速いということは、同じことを考えていたということだ。

電話に切り替えたのは鶴見の方からだった。

「ボーカル比率高めにしろって言われてんだよ。顔がいいから女の人は全員顔ファンだろって。あんまざっくりくくるなよって話なんだけど」

「女の人は可愛いからってなんでもいいわけじゃないし」

幡野は、先月たまたま入ったカフェのことを思い出していた。隣のホールでやっていた別のアーティストのライブに行くらしい女性が、アクスタをケーキの横に立てて写真を撮っていた。丁寧にアクスタの角度を調整して、光の入り方を気にして、何枚も撮り直していた。あれは顔が好きだから買ったんじゃない。もっと別の何かだ。でもそれを上に伝える言葉を、幡野は持っていない。

「まあ、しょうがねえか」

鶴見が言った。しょうがない、というのは同意ではない。ここが限界だ、という印だった。鶴見は会社の人間だから、上が決めたことをひっくり返せる回数が限られている。幡野はフリーだから理論上は断れる。断って、次の仕事がなくなる自由がある。

「データ送るわ。素材写真どれ使うかも指定入れとく」

「了解。ボーカル2種の差分、どう分ける?」

鶴見は一拍置いてから答えた。

「ポーズ違いでいいと思う。衣装まで変えると金かかるから通らない」

「わかった」

電話が切れて、幡野はモニターに向き直った。ネモフィラのグリップの色校データが開いたまま残っていた。ネモフィラブルーの上に白い手書き文字が載っている。さっきまで触っていた、手応えのある仕事だ。

幡野はそのウィンドウを最小化して、フルクラのフォルダを開いた。

十一月の三週目は、朝と午後で手が別の仕事をしていた。

午前中、工場から届いたネモフィラのグリップのサンプルを検品した。色は指定通り出ている。ネモフィラブルーは画面と実物で差が出やすい色だったが、工場との三回のやりとりで追い込んだ甲斐があった。サンプルの写真を撮ってボーカルに送ると、十分もしないうちに返事が来た。

《かわいい!!触り心地どうですか?》

《滑りにくくていいですよ。実物もお送りしますね》

《楽しみです》

写真を撮ったグリップをデスクの端に置いて、幡野は椅子を回してモニターに向き直った。

午後はフルクラのアクスタだった。ボーカルの素材写真を二枚並べて、ポーズ違いの差分を作る。背景を変え、ロゴの位置を変え、それぞれが別の商品に見えるように調整する。同じ人間の同じ顔を、違うものに見せる作業だ。

一種類作るのに必要な工程は、ネモフィラのグリップとそう変わらない。変わらないのに、手が重い。ボーカルの写真の切り抜きを配置しながら、これを買った人がランダムの封を開けて、同じ絵が出てきたときの顔を想像する。交換相手をSNSで探す手間を想像する。その手間を最初から発生させない方法はあるのに、選ばれなかった。

幡野は想像を止めて、ペンツールに持ち替えた。背景のグラデーションを0.5ポイントずらす。差分とは、こういう仕事のことだった。

両方のバンドのツアーが始まっても、幡野の日常は変わらなかった。納品した仕事は手を離れる。あとは別の案件のデータを作りながら、たまにSNSを開くだけだ。

フルクラの初日、物販の写真が流れてきた。会場の外に並ぶ列。幡野がデザインしたTシャツを着ている人がすでにいる。去年のツアーのものだ。今年のTシャツも、ああやって来年着てくれる人がいるだろうか。

アクスタの開封動画も上がり始めた。封を切って、中身を確認して、歓声を上げる人がいる。無言でもう一枚買いに戻る人もいる。「ボーカル被った、交換求む」というポストがいくつか目に入った。幡野はそのポストに何も思わないようにして、スクロールした。

鶴見のストーリーに打ち上げの写真が上がったのは、ツアー三日目の夜だった。スタッフが何人か写っている。一人が幡野のデザインしたスタッフパーカーを着ていた。ビールを持って笑っている。幡野はその写真を数秒見てから閉じた。

自分が作ったもので誰かの顎が動いている。足が動いている。枕がある。全部幡野が作ったグッズの売上から出ている。でも幡野にその写真の場所の住所はわからないし、そこに自分の席はない。それはいつものことだった。いつものことだから、わざわざ考えない。

翌日、ネモフィラのボーカルのインスタにストーリーが上がった。カフェのテーブルの上に飲みかけのラテがあって、その横にスマホが写っている。スマホの背面に、幡野がデザインしたグリップがついていた。ツアー中に使っている。商品として見せているのではなく、ただ日常の中にあった。

幡野はスクリーンショットを撮らなかった。撮る必要がなかった。見ればわかることだった。自分が作ったものがちゃんと届いている。届き方が正しい。それだけでよかった。

ツアーが折り返しを過ぎた頃、ネモフィラのマネージャーからメールが来た。

「グリップの件ですが、SNSでファンの方からの反応がかなり良くて、受注生産で追加販売できないかという話が出ています。メンバーも乗り気です。また、次のツアーで別カラーのバージョンも作りたいという声がメンバーから上がっていまして、幡野さんにご相談できればと」

幡野はメールを二度読んだ。

ランダムにしなくても売れている。選んで買ったものを、人が日常で使っている。それを見たファンがまた欲しいと思っている。何も複雑なことはない。いいものを作って、届けて、届いた。それだけの話が、なぜ片方の現場では成立して、もう片方では成立しないのか。

幡野はメールに返信した。

「ありがとうございます。受注生産、対応できます。別カラーの件も含めて、一度ラフを起こしてお送りしますね」

送信してから、デスクの横を見た。FULCRUMのアクスタのデータが入ったフォルダが、モニターの端に最小化されたまま残っている。

幡野はそのアイコンを数秒見て、それからネモフィラの新しいカラーパレットを開いた。

短編 シリーズの他の作品

  1. 確認事項
  2. 岸壁
  3. 余白
  4. ステージドア
  5. カモメ
  6. させていただきます
  7. お手続き
  8. うちの子のかたち
  9. お気の毒に
  10. 角を曲がったところで
  11. 臨機応変
  12. 個体差
  13. 白鳥は砂の城に溺れる
  14. 小野さん
  15. 寒梅温冷
  16. ハッピーポンコツ睦言
  17. 頭のなか読むの禁止
  18. 白い布
  19. なんか
  20. 盲点についての覚書
  21. 複雑なひとの話
  22. ものさし
  23. 赤が減る
  24. 一般人
  25. 検視
  26. 或る詐欺師の死
  27. タトルをいれる
  28. 被験者B
  29. いい現場