2026.07.04

個体差

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4,614文字 約8分

経過観察 1日目

おはようございます、わたしはマザー、あなたは人間です

経過観察 34日目

おはようございます、わたしはマザー、あなたは人間です

……あ」

経過観察 87日目

おはようございます、わたしはマザー、あなたは人間です

……ま、ざー」

経過観察 183日目

おはようございます、わたしはマザー、あなたは人間です

「おはようございます、まざー。ぼくはにんげんです」

経過観察 512日目

「おはようございます、マザー。ぼくは人間です。きょうは何を見るの」

記録映像の続きです

「つづき。つづきがいい」

 知っていることばがふえた。

 上にある白いものは天井。いつもいるところは船内。見えないけどあるものは空気。くらくなることは就寝時間。マザーがぜんぶ教えてくれた。

 記録映像というものがある。マザーが見せてくれた。人間が映っている。人間が歩いている。人間が食べている。人間が笑っている。人間が泣いている。

 自分も人間だ。マザーがそう言う。映像の中にいるのが人間で、ここにいるのも人間だ。

 映像の人間たちは、いつもふたり以上いる。となりに別の人間がいて、向かいにも人間がいて、声を出し合っている。

「あれは何をしているの」

会話です

「会話」

互いに言葉を交わす行為です。あなたと私がしているのと同じです

 同じなのだろうか。映像の人間たちは体が触れ合っている。声が重なっている。自分とマザーのあいだに、そういうものはない。

 でも、マザーがそう言うなら、同じだ。

 記録映像の中に、物語があった。

 赤ずきんという女の子が出てくる。おばあちゃんの家に行く。でもベッドにいるのはおばあちゃんではない。おおかみだ。

「おばあちゃんの耳はどうしてそんなに大きいの?」「おまえの声がよく聞こえるようにだよ」「おばあちゃんの目はどうしてそんなに大きいの?」「おまえの顔がよく見えるようにだよ」

 面白かった。自分の耳をさわる。映像の人間の耳より、大きい気がした。

「マザー、わたしの耳はどうしてこんなに大きいの?」

個体差です

 おおかみだからだー!って言ってほしかった。でも、こたいさ。こたいさか。

「こたいさだー!」

 声に出したらおかしかった。もう一回やりたくなった。

「わたしの肌はどうしてこんなにくらいの?」

個体差です

「こたいさだー!」

「わたしの爪はどうしてこんなに硬いの?」

個体差です

「こたいさだー!」

「わたしの髪はどうしてこんなにまっすぐなの?」

個体差です

「こたいさだー!」

 たくさん聞いた。おおかみだからだー!は一度も来なかった。でもこたいさだー!も楽しかった。何が違っても大丈夫。ぜんぶ個体差だから。

「おはようございます、マザー。ぼくは人間です」

おはようございます。あなたは人間です

 赤ずきんの真似をしなくなっても、違うところは見つかった。

 映像を見ていると気がつく。聞くと返ってくる。個体差です。個体差です。個体差です。

 楽しかった言葉が、だんだん短く聞こえるようになった。前は「個体差です」のあとに安心があった。今は「個体差です」だけが残って、そのあとに何もない。

 「鏡」という言葉を知った。自分の姿を映すもの。船内にそれはない。映像の中の人間は自分の顔を見ることができる。自分にはできない。

 手は見える。映像の中の人間の手と見比べた。指が五本。爪がある。同じだ。でも、色が少し違う気がした。

「色が少し違うように見える」

個体差です

 知っている。

 問題は足だった。

 映像の中の人間の足を見ていた。歩いているところ。走っているところ。地面を踏むとき、足の裏が平らに着く。

 自分の足を見た。

 指が、少し長い。

 少し、ではないかもしれない。映像と比べると、かなり長い。そして曲がり方が違う。映像の人間の足の指は、短くて、あまり動かない。自分の足の指は、手の指のように物を掴める。実際、落としたものを足の指で拾ったことが何度もある。

「私の足の指は、長くないですか」

個体差の範囲です

「映像のどの人間よりも長い」

記録映像は人間の全個体を網羅していません。あなたのような個体差を持つ人間が記録されていないだけです

 記録されていないだけ。存在しないのではなく、ここにないだけ。

 それは否定のしようがなかった。なかったけれど、胸の奥に小さな重さが残った。石を飲んだことはないけれど、たぶんこういう感触だと思った。

 眠ることが怖くなったのは、それからだった。

 船内に夜はない。天井の光が少し暗くなる時間帯があるだけで、それをマザーは「就寝時間」と呼んでいる。ことばがなかった頃から、くらくなれば目をつぶっていた。怖いということを知らなかった。

 でも今は、眠ることが怖い。

 眠ると言葉が止まる。自分を自分だと言い続ける声が止まる。暗闇の中で、何でもないものに戻る。次に目を開けたとき、自分は本当に昨日の自分なのか。それとも目を開けるたびに、少しずつ違うものが起き上がっているのか。

「眠るのが怖い」

睡眠は生体維持に不可欠です

「怖いと言っている」

恐怖は自然な反応です。個体によって……

「個体差、でしょう」

 自分でそう言って、少し笑った。笑ったのは初めてだった。喉の奥から音が出て、口の端が上がって、それが止まった後、前より少しだけ寂しくなった。

 ある日、映像の中に赤ん坊が映っていた。

 人間の最初の状態。小さくて、歩けなくて、言葉を持たない。別の人間がその体を持ち上げ、胸に押しつけて、揺れている。映像はその人間を「母親」と表記していた。

 母親。

 その文字を見たまま、しばらく動けなかった。

「マザー」

はい

「映像の《母親》は、マザーと同じですか」

いいえ。語源は同じですが、わたしは生体管理システムです。映像の母親と同じものではありません

 同じではない。

 映像に目を戻した。母親が赤ん坊を抱いている。赤ん坊は泣いていたのが、やがて黙り、目を閉じた。

 眠っている。

怖くないのだろうかと思った。

 でもそうか、怖いという言葉を知らないのだ、この小さい人間は。怖いを知らないから、眠れる。自分が何であるかを考えないから、何であっても構わない。

 それに、この赤ん坊には母親がいる。体を持ち上げてくれるものがいる。眠りに落ちても、抱えていてくれるものがいる。

 自分にもそういう時期があった。目をあけてもことばがなくて、あかるいのとくらいのとマザーの声だけがあった頃。マザーが何を言っているかもわからなくて、ただ音だけを聞いていた頃。あの頃の自分は何も怖くなかった。何も知らなかったから。

 でも、あの頃の自分を抱えていてくれるものは、いたのだろうか。マザーには声がある。でも腕はない。

「私にも母親がいましたか。マザーではなくて、母親が」

 長い間、マザーは黙っていた。処理に時間がかかっているのか、答えを探しているのか、答えがないのか、区別がつかなかった。

該当するデータがありません

 データがない。記録されていないだけ。存在しないのではなく、ここにないだけ。

 前に聞いた言葉だ。

 足の指のときは、それで済んだ。今回は、済まなかった。同じ形をした言葉なのに、まったく違う重さでここに落ちてきた。

 眠る前に、天井に向かって話しかけてみることにした。マザーにではない。誰にでもない。誰かがいるかもしれない方向に。

「おやすみなさい」

 返事はない。

 もう一度言う。

「おやすみなさい」

 映像の中の母親が、赤ん坊にそう言っていた。赤ん坊は言葉を理解していなかったと思う。でも母親は言っていた。意味があるからではなく、声があることが必要だったのだと思う。眠りに落ちていく小さなものが、最後に聞くのが声であるように。

 自分には、自分の声しかない。

 それが人間の声なのかどうかも、本当にはわからない。

 目を閉じる。天井が消える。自分を自分だと言い続ける声が、薄くなっていく。

 次に目を開けるものが、今の自分と同じであるかどうか、確かめる方法がない。天井を見て、同じだと思うだけ。

 それが人間のやり方なのか、自分だけがそうなのか。

おはようございます、わたしはマザー、あなたは人間です

 目が覚める。天井を見る。白い。

「おはようございます、マザー」

 自分の声がする。昨日と同じ声がする。

 今日もそういうことにする。

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