大学の正門をくぐるのは、たぶん十二年ぶりだった。
五月の終わりの、湿気が首の後ろに貼りつくような午後。守衛所の脇を通り抜けると、銀杏並木の向こうに煉瓦色の建物が見えた。人文社会科学研究棟。メールに書かれていた建物名と照らし合わせて、僕はスマートフォンをポケットにしまった。
一万五千円
意思決定に関する実験。所要時間、約二時間。謝礼、一万五千円。
被験者募集の広告を見つけたのは三日前のことだ。
求人サイトの片隅に、大学のロゴとともに掲載されていた。意思決定に関する実験、という文言が少し面白そうだと思った。契約していたウェブ制作の案件が先月で終わり、次が決まるまでの空白に入っていた。今夜は元同僚に飲みに誘われていて、集合は十九時。実験は十四時開始の二時間。終わってから夕方をぶらぶらして、ちょうどいい時間になる。飲み代も稼げると思えば、やらない理由がなかった。
三階の実験室に向かうエレベーターは、右のドアだけが微かに歪んでいて、閉まるたびに金属がこすれる音がした。降りると、蛍光灯に照らされた廊下の突き当たりに「受付」と印刷された紙がドアに貼ってある。
ノックをすると、大学院生らしい女性が顔を出した。名前を告げると、リストを確認してクリップボードを渡される。同意書。個人情報の取り扱い。実験中の録音・録画についての承諾。ボールペンで署名しながら、こういう文面にいちいち目を通す人間はどれくらいいるのだろうと思った。僕は通さなかった。
待合室に案内される。学校の教室を半分にしたような部屋に、パイプ椅子が八脚ほど並んでいた。すでに五人が座っていた。大学生と思しき男女が二人、スーツ姿の中年男性が一人、僕と同じくらいの年齢の女性が一人。そしてもう一人――入り口に近い椅子に、フードつきのパーカーを着た男が背中を丸めて座っていた。何かの拍子にその背中が目に入って、一瞬だけ引っかかった。知っている姿勢のような気がした。しかし顔は見えなかったし、パーカーの背中などどれも似たようなものだ。気のせいだと思い、僕は一番奥の椅子に腰を下ろした。
スマートフォンで時間を確認する。開始まであと十分。エアコンの音だけが均質に部屋を満たしていて、誰も話さなかった。
参加者B
実験室は待合室よりもさらに狭かった。長机が三つ、それぞれにノートパソコンが一台ずつ置かれている。僕を含む三人が一組になって、一つの部屋に通された。大学生の男と、スーツの中年男性。三人とも名前は伏せられ、それぞれ「参加者A」「参加者B」「参加者C」と呼ばれた。
僕はBだった。
実験者は三十代半ばくらいの男性で、細い銀縁の眼鏡をかけていた。淡々とした口調で、「これから皆さんには、ある選択を行っていただきます」と、スクリーンに映したスライドを使いながら説明を始めた。
ルールは、思ったよりも単純だった。
僕たち三人は一つの「世代」を構成する。僕たちの世代には共有の資源がある。金額にして三十万円。この資源をどう扱うかについて、二つの選択肢が与えられる。
選択肢A
資源を多めに消費する。僕たちの世代は一人あたり十二万円を受け取る。ただし、次の世代に引き継がれる資源は十八万円に減る。
選択肢B
資源を節度をもって使う。僕たちの世代は一人あたり八万円を受け取る。次の世代にも三十万円がそのまま引き継がれる。
多数決で決める。二人以上が同じ選択をすれば、それがこの世代の決定になる。実際の謝礼は選択の結果に応じたポイントで計算され、基本謝礼に加算される。
「なお、次の世代は、別の部屋にいる別の参加者グループです。皆さんの選択が、そのグループの初期資源に影響します」
実験者はそう言って、質問がないか確認した。
僕は画面の数字をもう一度見た。Aなら十二万、Bなら八万。差額は四万。一人あたりのポイント差がそのまま謝礼に反映されるなら、Aを選ばない理由を探すほうが難しい。次の世代が誰かは知らない。知りようもない。
スーツの男性が小さく咳払いをした。大学生は画面を見つめたまま動かなかった。
画面に選択のボタンが表示される。AとB。僕はAを押した。
結果が表示された。全員がAだった。
実験者が頷いて、何かを記録した。僕は少しだけ安堵した。自分だけがそうしたのではないという安堵。三人とも同じ結論に至ったという、合理性の確認。あるいは、共犯の安堵だったのかもしれない。
ずれ
第二ラウンドの説明が始まったとき、実験者の声のトーンが僅かに変わった気がした。気のせいかもしれない。
「次のラウンドでは、皆さんのうちお一人に、特別な役割を担っていただきます」
仮想将来人。
まだ生まれていない将来の世代の一員として、この場に参加する。現世代の二人と同じテーブルにつき、同じ選択に臨む。ただし、立場が違う。あなたはこれからの世代の利益を代弁する者として、現世代の参加者と話し合ったうえで、投票してください。
指名されたのは僕だった。参加者B。
「では瀬尾さん――失礼、参加者Bは将来世代の立場から、この選択についてお考えください。話し合いの時間を五分間設けます」
パソコンの画面が切り替わり、僕の表示枠だけ色が変わった。薄い青。現世代の二人は白いまま。
五分間の話し合い。僕は将来世代を演じなければならない。
正直に言えば、最初は演技だった。求められた役割をこなすだけのことだ。実験の手順に沿って、それらしい台詞を言えばいい。
「あの、次の世代としては……Bを選んでいただけると、助かります」
口に出した瞬間、自分の声が妙にぎこちなく聞こえた。助かります。誰が。まだ存在しない誰かが。僕は実在する人間で、この部屋にいて、この椅子に座っている。演じている将来世代の人間は、どこにもいない。
スーツの男性が腕を組んだ。
「まあ、気持ちはわかるけど、こっちにも事情があるからね」
大学生が画面を見ながら言った。
「でも、Aだと次の人たち、結構きつくないですか」
僕は数字を見た。Aを選んだ場合、次の世代に渡る資源は十八万円。三人で割れば六万円。そこからさらに次の世代のことを考えなければならない。六万円のテーブルで、彼らは同じ選択を迫られる。そのとき彼らがAを選べば、その次の世代にはもっと少ない額が渡る。
この連鎖を想像したとき、何かがずれた。
演技だったはずの視点が、ほんの少しだけ、地面に足をつけた感覚があった。将来世代として「困る」のではない。将来世代としてこのテーブルを見たとき、数字の意味が変わるのだ。十二万と八万の差額四万は、僕にとってはちょっとした余裕だ。しかし次の世代にとっては、三十万と十八万の差額十二万が。テーブルそのものの大きさが変わる。
「Bにしませんか」
僕は言った。さっきよりも声が落ち着いていた。
「十二万もらっても、それは僕らの世代がテーブルを小さくして得た金です。次の世代がAを選ばざるを得なくなったら、その次はもっと小さくなる。最初に誰かがBを選ばないと、テーブルはどんどん縮んでいく」
スーツの男性が黙った。大学生が少し前のめりになった。
投票が行われた。結果は、Bが二票、Aが一票。Bが選ばれた。
スーツの男性がAだったのだろうと思った。あるいは、僕がそう思いたかっただけかもしれない。
実験者が記録をとる間、僕は画面の青い枠を見ていた。驚いたのは、結果ではなかった。Bが選ばれたことを、嬉しいと感じた自分のほうだった。
五分前に、まったく同じ構造の選択でAを迷いなく押した人間が、立場を割り当てられただけで変わる。役を演じただけで……、演じた、のか?
あの声は、僕のものだった。台本はなかった。数字を見て、連鎖を想像して、口を開いた。それは演技だったのか、それとも、演技という形式がなければ出てこなかった本音だったのか。
区別がつかなかった。つかないこと自体が、少し怖かった。
全員が青
第三ラウンド。実験者がスライドを切り替えた。
「最後のラウンドでは、全員に将来世代の役割を担っていただきます」
三人全員の画面が青に変わった。
イロコイ条件。実験者はその名前を口にしなかったが、後で配られた資料にそう書いてあった。北米の先住民族イロコイ連邦では、重要な意思決定を行う際に七世代先への影響を考慮したという。その思想にちなんだ実験条件。
全員が将来世代。つまり、この部屋に「現世代」はいない。
話し合いの五分間が始まった。しかし、始まった瞬間に、空気が変わったのがわかった。
第二ラウンドには交渉があった。「こちらの事情」と「あちらの事情」があり、その間で折り合いをつける必要があった。しかし今回は、全員が同じ側にいる。交渉の相手がいない。「Bでいいんじゃないですか」スーツの男性が最初に口を開いた。
大学生が頷いた。僕も頷いた。
それだけだった。五分のうち、四分以上が余った。
投票。全員がB。
あっけなかった。あまりにもあっけなかった。そしてそのあっけなさが、僕を不安にさせた。正しい答えを出した、という感覚がなかった。全員がそうするように設計された場所で、設計通りに振る舞った。それだけのことではないか。
第一ラウンドで全員がAを選んだとき、僕は安堵した。合理性の確認だと思った。しかし今、全員がBを選んだことにも同じ構造の安堵がある。自分だけではなかったという安堵。方向は正反対なのに、感覚は同じだ。
つまりこの安堵は、選択の正しさとは何の関係もない。ただ多数派にいることの安心にすぎない。では、第二ラウンドで僕が感じた「嬉しさ」はどうだったのか。あれだけが本物だったのか。あれも構造の産物だったのか。
実験者が「ここまでで実験は終了です」と言ったとき、僕はまだその中にいた。
五千円
実験後、アンケートに答え、簡単な説明を聞いた。世代間持続可能性ジレンマ。仮想将来世代の効果。フューチャー・デザイン。実験者の口からいくつかの術語が発せられたが、僕の耳を通り抜けていった。
「では、謝礼のお手続きにご案内します。お一人ずつお願いしますので、お待ちください」
最初に呼ばれたのはスーツの男性で、次が大学生だった。二人がそれぞれ個室に入り、数分で出てきた。何事もなかったような顔をしていた。
「参加者Bの方、どうぞ」
案内されたのは、廊下の奥の小さな部屋だった。机が一つ、椅子が一つ。机の上にA4の用紙が一枚と、ペンが置かれている。
部屋に入ると、案内してくれた大学院生が「ごゆっくりどうぞ」と言って、ドアを閉めた。用紙を見ると、上部に「謝礼受領に関する選択」と印刷されている。
その下に、二つの選択肢。
一、基本謝礼一万五千円を全額受け取る。
二、基本謝礼から五千円を辞退し、一万円を受け取る。辞退分は次の実験参加者の謝礼に加算される。
その下に、小さな文字で注記があった。
- 本項目は実験の一部ではありません。謝礼の受領方法に関する事務的な確認です。どちらを選択されても、実験結果には影響しません
僕はその注記を二度読んだ。実験の一部ではありません。では、なぜ選択肢があるのか。
謝礼は一万五千円と募集要項に書いてあった。何も選ばせず渡せばいいだけのことだ。それをわざわざ二択にして、個室で、一人で選ばせている。これが実験の一部でないなら、何なのか。そして実験の一部だとしたら、僕はいま何を試されているのか。
用紙の前で、ペンを手に取った。
あの実験室で、全員が青い画面を前にBを選んだ。将来世代のために。まだ見ぬ誰かのために。正しい選択。美しい合意。そして今、僕は一人きりの部屋で、同じ種類の選択を突きつけられている。
ただし条件が違う。あの実験室には三人がいた。多数決があった。結果は全員に見えた。ここには僕しかいない。見ている人は、たぶんいない。もしこれが本当に事務手続きなら、僕がどちらを選んでも誰にも知られない。
五千円。次の参加者に渡る五千円。「次」の参加者。それが誰かを、僕は知らない。
知らないはずだった。廊下で足音がした。複数の靴底が、リノリウムの床を踏む音。そのうちのひとつが、不意に止まった。ドアの磨りガラスの向こうに、人影が映って。影はまたすぐに動き出し、通り過ぎた。
止まった一瞬に、聞こえた。小さな咳払い。喉の奥を押さえるような、乾いた短い音。記憶のどこかが反応した。あの咳払いを知っている……。確信はなかった。磨りガラスは輪郭を溶かし、足音は遠ざかり、咳払いの残響は空調の音に吸い込まれた。待合室で見た、パーカーの背中。あれが誰だったのかは、結局わからないままだ。
僕はペンを持ったまま、用紙を見下ろしていた。
もしあれが知っている人間なら。たとえば昔の同僚、あるいは学生時代の知人。その人間が次にこの部屋に座り、一万五千円を――いや、二万円を受け取る。僕が五千円を差し出したから。そう思えば、迷う余地はない気がする。
しかし。もしあれが知らない人間なら。一度もすれ違ったことのない、名前も顔も知りようのない誰か。その人間のために五千円を手放すかどうか。それは実験室の中で、僕たちが「将来世代」と呼んだものと、構造がまったく同じだ。
あの実験で全員がBを選べたのは、全員が将来世代になったからだ。では、この部屋で僕がBを選べるのは、廊下の向こうが知り合いかもしれないからなのか。
それでは何も変わっていない。
顔の見える相手には優しくできる。声の聞こえる相手には想像力が働く。それは実験の前から僕が持っていた能力であり、限界だ。知り合いだから五千円を渡す。それは合理的で、人間的で、そして、あの実験室で起きたこととはまったく別のものだ。
あの青い画面の前で、僕の声が言ったこと。テーブルはどんどん縮んでいく。最初に誰かがBを選ばないと、と。あのとき僕が見ていた「次の世代」には、顔がなかった。名前がなかった。咳払いの癖も、パーカーの色も、何もなかった。それでも僕はBを選んだ。そしてそれを嬉しいと感じた。
いま僕がやろうとしているのは、廊下の人影に顔を与えることだ。見覚えのある輪郭を、声を、人格を。そうすれば選びやすくなるから。自分の選択に、理由がつくから。
しかし、理由がつく選択は、あの実験室で僕が感じたものとは違う。
あの「ずれ」は、理由がないから起きた。役を与えられて、根拠のない立場に立たされて、それでも口を開いたら自分の言葉が出てきた。誰のためでもなく、まだどこにもいない誰かのために。あの瞬間だけ、僕は自分の合理性の外側に出た。出たことに、自分で驚いた。
ペンのキャップを外す。
五千円は、僕にとって小さな金額ではなかった。契約が切れて、次の案件がいつ決まるかわからない。今月の残りを計算すれば、五千円は二日分の食費になる。それを手放すのは、合理的ではない。けれど。廊下の向こうにいるのが誰であるかを、知りたいと思った自分がいた。知り合いであってほしいと思った自分がいた。そうすれば楽に選べるから。その誘惑に気づいたとき、ようやく理解した。
実験はとうに終わっている。しかし、終わっていないものがある。
あの実験室で起きたことが本物だったかどうかを確かめる方法は、ひとつしかない。顔のない相手に対して、理由のない選択ができるかどうか。僕はペンを用紙の上に下ろした。
磨りガラスの向こうは、もう静かだった。
正門を出ると、銀杏並木の影が夕方の光に長く伸びていた。
スマートフォンを取り出す。元同僚からのメッセージが一件。営業先から直帰になったから早く飲めそう、とあった。タイミングがいい。了解、と返す。
歩きながら、今夜どう話すかを考えていた。面白い実験に参加してきた、と切り出すだろう。ジレンマゲームの仕組みを説明して、自分が何を選んだかを話して。そして最後に、ビールのジョッキ越しにこう訊くのだ。
「なあ、お前ならどうする?」