2026.06.25

盲点についての覚書

サイト限定

2,318文字 約4分

川瀬が「盲点」と言ったのは木曜日の昼で、それを聞いた栗田が眉をひそめたのも木曜日の昼だった。

「それ、差別用語に入ってるの知ってます?」

栗田は二十六歳で、川瀬より四つ若い。言い方に棘はなかった。ただ事実を述べるような、天気予報に近いトーンだった。

「盲って字が入ってるから。視覚障害の方への配慮として、最近は避けたほうがいいって言われてて」

川瀬は箸を止めた。コンビニの親子丼の、鶏肉についた衣が弁当箱の底に沈んでいるのを見つめながら、反論でも同意でもない場所を探していた。じゃあ盲腸もだめなのか、という言葉が喉まで来て、飲み込んだ。反射で返していい類の話ではないことくらいはわかる。

「知らなかった」とだけ言った。

知らなかった、というのは正確ではない。どこかで見た気がする。見たが、通り過ぎた。川瀬のタイムラインではそういう話題が浮上しないように、長い時間をかけて整地されていた。フォローを絞り、ミュートを重ね、おすすめ表示を切り、リストを使い分ける。丁寧に手入れされた庭のように、川瀬のTLには川瀬の見たいものだけが並んでいた。

それは技術だった。少なくとも川瀬はそう思っていた。

「いや、知っててもよかった」

 栗田はもう別の話をしたそうだった。が、川瀬のほうが引っかかっていた。知らなかったという事実にではなく、知らなくても困らない場所に自分がいたという事実に。

同じ週に、別の出来事があった。

昼休み、後輩の宮坂がスマホの画面を見せてきた。映画のレビューサイトだった。最近公開されたリメイク版の評価が割れていて、宮坂はそれを面白がっていた。

「オリジナルのほうがいいって言ってる人多いんですけど、具体的にどこが違うんですかね?」

川瀬は麦茶のパックにストローを刺しながら、最初に思ったことがある。

オリジナルを観たことがあるのか。

訊かなかった。訊く必要もなかった。宮坂の聞き方がすでに答えだった。観た人間は「どこが違うんですかね」とは言わない。違いは説明を求めるものではなく、観れば体に残るものだからだ。

宮坂に悪気はない。レビューの点数が割れているから、その差分を知りたいだけだ。情報として比較したい。きわめて合理的な関心の形をしている。

ただ、と川瀬は思う。

合理的な関心の形をしているだけで、関心として成立しているかは別の話だ。観ていないものの優劣を他人の言葉で理解しようとする。了解はできても、それは理解にならない。

川瀬は「へえ」とだけ返して、親子丼に戻った。

これが知性の話なら簡単だった。知性の高い人間と低い人間がいて、その差が見える世界の差になっている。そういう図式なら、川瀬は嫌な気分になりつつも整理はつく。でも実際にはそうではない。宮坂は仕事ができる。企画書の構成は論理的だし、クライアントへの説明もうまい。ただ、ものに触れるときの手順が川瀬とは違う。レビューを先に読んで、面白そうなら観る。川瀬は観てから考える。どちらが正しいという話ではない。ただ出発点が違う。

同じスマホを持っているのに、画面の向こうに見えている景色が違う。

金曜の夜、川瀬の自宅で別のサイトを見ていた。SNSではない、古いタイプの掲示板のような場所だった。そこである話題が燃えているのを見つけた。

AI生成物の著作権に関する議論だった。規模としてはそこそこ大きい。意見は賛否に割れ、まとめ記事もいくつか出ている。

川瀬はTLに戻った。何もなかった。

賛成もない。反対もない。関連するリポストもない。まるでその話題が世界に存在しないかのように、金木犀の写真とラーメンの感想と技術記事だけが流れていた。

美しい、と思った。

それから、怖い、と思った。

自分が構築した情報空間は、自分が必要とするものを過不足なく届けてくれる。そのかわり、自分が必要だと思わなかったものは永遠に届かない。栗田が差別用語の話をしなければ、川瀬は「盲点」という言葉を来年も再来年も使い続けていた。宮坂がリメイク版の話をしなければ、観ていないものを比較しようとする認知の構造について考えることもなかった。

そして今、掲示板を自分で見つけなければ、この著作権論争を知ることもなかった。

庭を手入れしすぎた。

いや、手入れが完璧だったからこそ、庭の外で起きていることが見えなくなった。それもまた盲点といえば盲点だが、もうその言葉を気軽には使えない。

川瀬はブラウザを閉じて、天井を見た。

あの映画のオリジナルを観ようか、と思った。配信ではなく、できれば暗い劇場で。スマホを切って、二時間、ほかの情報を一切入れずに。それが自分に何を教えてくれるかはわからない。でも少なくとも、レビューの点数だけ見て「どこが違うんですかね」と訊く人間にはなりたくない。

それは傲慢かもしれない、と川瀬はすぐに思い直す。宮坂は宮坂のやり方で世界に触れている。レビューを入り口にして興味を広げるのは、順序が違うだけで間違いではない。そのやり方が川瀬の目から見て浅く見えるのは、川瀬の目がそういうふうにできているからであって、宮坂の問題ではない。

知性の話ではない。

ただ、使っている道具が同じなのに、同じ場所にいない。

川瀬はそのことについて、もう少し考えたかった。でもそれをうまく言語化できる言葉が、盲点を失った今の語彙の中に見つからなかった。

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