先生の手は、正確だった。
メスの角度も、開いた後の縫合も、すべてに理由がある。もう何も感じない体に同じ手間をかけるのは無駄ではないかと、一度だけ訊いたことがある。この人にはまだ名前がある。手を止めないまま先生はそう云った。
三年。毎日隣に立ってきた。教わったものの中でいちばん大きかったのは、技術ではなく姿勢だった。検視台の上にあるのは証拠品ではなくて人間だということ。正しい結論を出すことが、その人間に対する最後の礼儀だということ。
先生の隣にいると、自分も正しくなれる気がした。
搬送されてきたのは四十代の男性だった。急性心不全の疑い。既往歴なし。
胸を開いても、心臓には何の問題もない。先生の手が胃へ向かう。俺は黙ってトレイを差し出した。
ラップに包まれた白い粉の残骸が出てきた。体内運搬だった。包みのひとつが消化液で破れている。中身が血中に一気に流れ込めば、心不全のように見える死に方をする。
搬送元の書類には、見慣れた署の名前があった。
第一発見者は所轄の署員。身元照会も現場検証も、すべて署内で完結している。外部の目がひとつも入っていない。
先生がマスクを外す。後ろでひとつに結ばれた髪が、首筋を掠めて揺れた。表情は静かだったが、目の奥に灯ったものを見落とすことはできなかった。
帰ったら報告書をまとめる。先生はそう云って、使い捨て手袋を丁寧に裏返した。声に迷いはなく、むしろどこか清々しい。
一杯だけ付き合わせてくださいよ、と笑った。少し考える顔をしてから、気分転換も悪くないか、と先生が返す。
先生の部屋は、思ったより片付いていた。ソファに並んで座る。帰りに買ったバーボンの封を切って、グラスを二つ借りる。ロックを作って、先生の前に置く。
グラスが二つ並ぶ。
先生は検視台の上で見つけたものについて話し始めた。署内完結の不自然さ。外部監査が必要だということ。気になることは報告書に書く、真実を握り潰すようなことはさせない。声は低いが、静かに燃えていた。
こないだ見た映画の話になった。署長どころか署員全員がグルになって麻薬の密売をしていたという結末で、エンタメとしてはお粗末で見栄えもしないが正しかった。正しいからひどいのだ。先生はそう云って、少し笑った。
相槌を打ちながら、先生のグラスの水位を見ていた。
先生のグラスが空になると、立ってキッチンへ向かう。二杯目を作って戻る。三杯目も俺が注いだ。悪いな、と先生が笑う。
先生の話を聞いていた。正しいことを正しいと云える人の声は、きれいだ。この三年間、ずっとそう思ってきた。
三杯目の途中で、先生の体がゆらゆらと揺れ始める。支えた反動で、先生が吐いた。
「ッ、……ぅえ」
大丈夫ですか、と声をかけながら背中をさする。知っている体だ。白衣の上から触れてきた肩甲骨の位置も、首の筋の張り方も、三年間隣で見てきたものと同じだった。
「ちょっと、つよすぎたかな」
バーボンの、喉を灼くような飲みあたりは、多少の違和感など吹き消してしまう。
嘔吐が続いている。もう何も出ていないのに、体が波打つようにえずく。腕を回して支えた。吐瀉物で袖が汚れるのは構わなかった。
「いいですよ、出して。楽になりますから」
肩を抱く。先生の体温がシャツ越しに伝わってくる。薬品のにおいの奥に、かすかに汗のにおいがある。
指を首筋に当てた。脈を診る仕草で、少し長い間。速い。まだ、速い。それから髪を撫でた。手順にはない動作だった。
「報告書は俺がやっておきますから。先生はもう休んでください」
先生の体から、わずかに力が抜けた。声が届いたのか、ただの弛緩か。
ソファに横たえた。体を横向きにして、顎を持ち上げて気道を確保する。嘔吐した患者にはそうする。先生に教わったとおりに。
髪を束ねているゴムに指をかけて、ゆっくりと引き抜いた。三年間ずっと同じ位置にあったゴムだった。ほどけた毛束が頬と首筋に流れる。
背中に添えた手のひらに届く呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
先生の隣にいると、自分も正しくなれる気がした。気がしただけだった。
「優秀じゃなかったら、もうすこし一緒にいられたのに」
ブランケットを広げて、肩まで覆う。返事はもうない。
明日の朝、電話が鳴る。驚いた顔くらいはできる。