結婚しよう、と彼が言った。
居酒屋だった。金曜の、騒がしいほうの時間帯で、隣のテーブルでは大学生くらいの男の子たちがビールタワーを囲んでいた。彼の声はその喧噪にまぎれて半分くらい聞こえなかったけれど、口の動きと、それからあの妙にまっすぐな目で、何を言われたかはわかった。
うれしい、と思うより先に、頭のなかで何かが起動した。
パソコンのファンが回りはじめるみたいに、かすかな音を立てて、わたしの思考が稼働しはじめる。指輪の相場。婚姻届の証人欄に書いてもらう名前。名字が変わったら届け出なきゃいけないもののリスト。扶養。年末調整。母に電話したら泣くだろうか、笑うだろうか。友梨がインスタに上げてた前撮り写真のロケーション。
全部、ぜんぶ手続きの話だった。
涙が出た。
彼はテーブル越しに手を伸ばして、わたしの指に触れた。ああ泣いてる、よかった、という顔をしていた。そういうふうに読んでくれることが、ありがたくて、同時にどうしようもなく申し訳なかった。
わたしは泣いているけれど、それはあなたのためじゃない。
付き合いはじめたのは二十四のときで、きっかけは覚えていない。覚えていないというのは記憶がないという意味ではなくて、どこからが友達でどこからが恋人だったのか、境目がわからないということだ。飲みに行って、映画を観て、たまに泊まって、朝になると何事もなかったみたいにそれぞれの生活に戻る。それを恋愛と呼ぶなら恋愛だったし、呼ばないなら友情の亜種みたいなものだった。
彼のことは好きだった。それは本当だと思う。日曜の朝に「昼なに食べる?」とLINEが来ると少しうれしかったし、仕事で嫌なことがあった夜に電話すると、彼はだいたい聞き役に徹してくれた。そのことに感謝していた。感謝、という言葉を恋人に対して使う時点でたぶん何かが歪んでいるのだけれど、当時のわたしにはそれが精一杯の誠実さだった。
ただ、彼と「結婚する」ということは、考えたことがなかった。
正確に言えば、考えたことはある。でもそれは、彼との結婚生活を夢見るという意味ではなくて、もっと乾いた計算だった。結婚していない二十六歳と、結婚している二十六歳。その二つを並べたとき、後者のほうが世間から受け取る摩擦が少ない。親戚の集まりで「お相手は?」と聞かれない。会社の飲み会で「彼氏いないの?」と振られない。友梨や沙耶や美月がグループLINEに子どもの写真を流してくるたび、既読だけつけて画面を閉じる、あの小さな疎外感がなくなる。
一般人になれる。
その資格を、合法的に、この人がくれる。
そういうふうに考えていた。考えてしまっていた。彼が居酒屋でまっすぐこちらを見ている今この瞬間にも、わたしの頭はその回路で動いている。
だからこそ涙が止まらなかった。
彼が席を立ってこちら側に来て、隣に座った。肩を抱かれた。ビールタワーの大学生たちが一瞬こっちを見て、すぐ興味をなくした。
「ごめん、場所ちょっとあれだったかな」
彼は笑いながら言った。場所の問題じゃない、と思ったけれど、言わなかった。
わたしはこの人のことが好きだ。でもそれは、結婚したい相手として好きなのではなくて、失いたくない人として好きなのだ。この区別を、彼はたぶん知らない。知らないまま、指輪の箱をポケットに忍ばせて、金曜の夜にここまで来てくれた。
イエスと言えば、わたしは彼を手に入れる。同時に、友達としての彼を失う。恋人としての彼を失う。そのどちらでもない、名前のつかない関係だったものが、「夫婦」という制度のなかに回収されて、二度と元の形には戻らない。
ノーと言えば、もっと早く失う。
どちらにしても失うのだと気づいたとき、泣いている理由がようやく自分でもわかった。わたしは悲しいのだ。うれしいのでも、困っているのでもなくて、ただ悲しい。この人の気持ちに値する人間が、ここに座っていないことが。
「……ありがとう」
声が震えた。彼はまたそれを良いほうに解釈してくれた。
「返事、急がなくていいから」
急がなくていい。その言葉の優しさが、ちゃんと痛かった。この人はいつもそうだ。わたしが差し出せるものよりずっと多くのものをくれる。その非対称に気づかないふりをして、わたしたちはここまで来てしまった。
隣のテーブルでビールタワーが倒れて、大学生たちが歓声を上げた。店員が走ってきた。彼がそっちを見て、小さく笑った。
わたしはその横顔を見ながら、まだ泣いていた。
答えは出ていた。出ていたけれど、どちらの答えかは、自分でもわからなかった。