居酒屋のテーブルの下に、黒いトランクケースがある。剛の足がときどきその角に当たって、中の金属が微かに鳴る。朝と同じ重さだった。
「で、どうだったの」
ビールで唇を湿らせながら健太が訊いた。向かいの裕也はお通しのポテトサラダを崩している。二人とも今日は別の用事で東京に来ていて、夜バスまでの時間が合ったから飲もうという話になった。剛のバスは二十三時五十分。あと三時間ある。
「まあ、ぼちぼち」
「ぼちぼちって。東京まで来てぼちぼちかよ」
「いや、場所がさ。今回ちょっと奥まっててさ。入口から遠いとやっぱきついんだよ」
健太がへえ、と頷く。裕也は何も言わない。
「でも隣のブースはまあまあ客入ってたから、場所だけの問題でもないんだろうけど」
剛は自分で言ってから、少し黙った。ビールを飲んだ。
「隣、どんな感じだったの」
「女の子がさ。アクセサリー。まあ、綺麗に作ってあるよ。デザインは嫌いじゃない。ただ技術的にはそこまでじゃないっていうか、ロストワックスで鋳造して磨いてるだけなのよ。俺がやってるような鍛金とか彫りとか、ああいう手間のかかることはやってないわけ」
「ふーん」
「でも什器がすごいの。アイアンの台にベルベット敷いて、ドライフラワー置いて、小さいスポットライトまで持ち込んでて。正直あれ什器だけで何万かかってんだろうって」
「金かけてんだな」
「で、ずっとタブレットで動画流してんの。女の子が朝カーテン開けて、コーヒー淹れて、その横にリングがあります、みたいなやつ。それを延々ループ。足止めて見てるお客さんがそのまま買ってくわけ」
「うまいな」
「俺は、まあ白い布敷いて並べてたんだけどさ」
健太がジョッキを置いた。
「もうちょいこう、見せ方とかあるんじゃないの」
「いや、うちは作品で見てほしいから。余計なもん置くと作品が見えなくなるだろ。素材と技術を見てくれる人に届けばいいわけで」
「でも届かなかったんでしょ」
剛は健太を見た。健太に悪気はない。ないからたちが悪い。
「……客層の問題だよ。デザフェスってさ、ああいう雰囲気モノが好きな人が多いのよ。ちゃんとした目で見れる人はもっと別のとこにいる」
「そういうもんか」
「そういうもん」
裕也がビールを一口飲んで、枝豆に手を伸ばした。
「でもさ、地元のクラフト市だと売れるんだろ」
「売れるよ。固定のお客さんもいるし。地元の人はちゃんと見てくれるから」
「じゃあ別によくない?」
「よくはないだろ。東京に出す意味ってあるじゃん。知ってもらうっていうか」
剛はそこで少し詰まって、ビールを干した。二杯目を頼んだ。
「まあ、あとさ。はっきり言うけど」
声が少し落ちた。
「隣の子、可愛いんだよ。顔が。で、お客さん、けっこう男の人も多くて。いや、結局さ、ものを見てんじゃなくて人を見てんだよな。ああいうのは」
健太が少し笑った。裕也は枝豆の殻を皿に戻している。
「じゃあさ、SNSもっとやれば。なんかこう、バズるやつ」
「やってるよ。インスタ」
「でもフォロワーどのくらい」
「……五千ちょい」
「その隣の子は」
「知らねえけど、たぶん何万とかいるんじゃない? ああいうのはフォロワー多そうだし」
「じゃあバズらせないとさ。なんかこう、あ、失敗したやつあるだろ。気に入らなくて使えないやつ。あれを床にガーンって投げつけて、それを早回しで撮んの。職人のリアル、みたいな」
「投げつける?」
「そう。バーンって。銀とか飛び散ったら映えない? それかハンマーでバコーンと潰すとか」
剛は笑わなかった。
「いや、それはないわ」
「なんで。かっこいいじゃん」
「失敗でも銀は銀だぞ。溶かしてまた使うんだよ。素材を無駄にして何がかっこいいんだよ」
「あー、そういうもんか」
「そういうもん。ていうかそういうのでバズったって来る客は作品見てねえだろ。面白い動画見てるだけで」
健太が「厳しいな」と笑った。裕也が少しだけ剛を見た。
裕也がスマホをいじっていた。それからふと顔を上げて言った。
「あの人のインスタ、見たことあるよ」
剛が振り向いた。
「あの人って、隣の?」
裕也がスマホの画面をこちらに向けた。朝の光が差し込むテーブルの上に、細いリングが二本並んでいる写真。白い皿にスコーンが乗っていて、奥にコーヒーカップが見切れている。
「ああ、これこの子だわ。お前フォローしてんの」
「うん。前から見てた。たぶん二年くらい前、フォロワー百人もなかった頃からやってて、ずっと同じことやってたよ。料理作ってその横にアクセサリー並べて、光の当て方とか背景とか、毎回ちょっとずつ変えて」
少し間が空いた。焼き鳥を焼く音と換気扇の唸りが急に近くなった。
「お前なんでこういうの見てんの」
「たまたまタグで見つけて。いいなと思って」
「へえ」
剛は二杯目のビールを受け取った。一口飲んで、それからもう一口飲んだ。
「まあ、可愛いもんな」
裕也は何も言わなかった。手の中の枝豆を割って、豆を口に入れた。
健太が「じゃあさ、溶かすとこ撮ればいいじゃん。ドロドロの銀がバーナーで溶けるやつ、絶対映えるって」と言って、BGMは何がいいかという話を始めた。剛は笑いながら付き合った。裕也はときどき相槌を打ちながら、ポテトサラダの残りを片付けていた。
二十三時半に店を出た。歌舞伎町の端を抜けて新宿駅のほうに歩く。健太が「次いつ東京来んの」と訊いて、剛は「いや、もういいかな」と言った。それから「地元のイベントで十分だわ」と付け足した。
裕也が少し遅れて歩いていた。
バスタ新宿の待合スペースで、剛はスマホを開いた。インスタグラムを開いた。通知は三件。全部、地元の知り合いからのいいねだった。隣のブースの子の名前は覚えていなかった。検索する気にもならなかった。
出発五分前のアナウンスが流れて、トランクケースを引きずりながら改札を通った。バスの荷物棚に乗せると、隣の客が少し迷惑そうな顔をした。足元に降ろした。
シートを倒して目を閉じる。明日の昼には地元に着く。来週は駅前の小さなクラフト市がある。あそこなら白い布でいい。見てくれる人がいる。
バスが動き出した。窓の外を新宿の光が流れていく。剛は目を開けなかった。
足元で、売れなかったリングとバングルが、バスの振動に合わせて小さく鳴っていた。