四月からバイトを始めた。
初日、店の裏口で支配人と会った。日焼けした顔の小柄な男で、ポロシャツの襟がくたびれている。事務所に通されると、スチール棚と古い冷蔵庫のあいだの隙間みたいな空間に、段ボールが積まれていた。その上に安全ベストとトランシーバーが無造作に置いてあって、支配人は顎でそれを示した。
「はい、これね。あとこれ」
名札だった。まだ名前は書かれていない。油性ペンを渡されて、その場で自分の名前を書く。ペン先が乾きかけていて、二画目からかすれた。
「あの、前の方からの引き継ぎとかって」
「ああ、いないんだよね、もう」
支配人は奥の冷蔵庫からペットボトルの茶を出して、一口飲んだ。
「急に来なくなっちゃってさ。まあ、そんな難しい仕事じゃないから。臨機応変にやってくれれば」
臨機応変。便利な言葉だと思った。何も決めていない人間が、決めていないことの責任を現場に押しつけるための言葉だ。けれど初日にそれを言える立場でもなく、安全ベストに袖を通した。蛍光イエローの生地はごわごわしていて、誰かの汗の匂いがかすかに染みついていた。洗濯されないまま、ここに置かれていたのだろう。
事務所の壁にクリアファイルが一冊、画鋲で留めてあった。中を見ると、営業時間のシフト表、清掃当番表、ゴミの分別ルール、それから何年か前の防犯カメラの配線図。駐車場の運用について書かれたものは何もない。そもそも「運用」という概念がこの店に存在するのかどうかも、俺にはわからなかった。
駐車場に出ると、五月が近い四月の陽射しがアスファルトを白く照らしていた。二十四台分のスペースが白線で区切られている。入口に一番近い二台分だけ、青い車椅子のマークが描かれていた。他の白線よりも幅が広い。平日の朝で、駐車場は半分も埋まっていなかった。
何をすればいいのか、具体的には誰にも言われなかった。
三週間で、だいたいのことは体で覚えた。
平日は問題ない。車が来たら空いている場所に誘導する。それだけだ。問題は土日の昼で、十一時を過ぎると確実に埋まる。満車になると、入ってきた車が通路で立ち往生する。出る車と鉢合わせになる。クラクションが鳴って、窓が開いて、怒った顔がこちらを向く。満車にしたのは俺じゃない。でもその顔はいつも俺のほうを向いている。
だから自分なりにやり方を決めた。待っている車の順番を覚えて、空いた瞬間に誘導する。順番さえ守れば、筋の通らない文句は出ない。「次はあちらのお車ですので」と言えれば、待っている側も待たせている側も収まる。
うまくいっている、と思った。順番の管理は俺の仕事の核になった。
ただ、待機場所がなかった。
通路に停められると、出ようとする車が動けない。かといって駐車場の外で待たせれば列が道路にはみ出して、近隣から苦情が来る。前に向かいのクリーニング屋の主人が怒鳴り込んできたことがあったらしい。その話を教えてくれたのは隣のテナントのパートの女性で、支配人からではなかった。この店の情報は、だいたい支配人以外のところから回ってくる。
「前の人、車椅子のとこ使ってたよ」
レジの合間に、彼女はついでのような口調で言った。
「車椅子の?」
「入口の横の、広いやつ。あそこ普段あんまり使わないから。待ってる車を一時的に入れてたみたい」
なるほどと思った。確かにあそこは広い。入口に近く、通路を塞がない。一台入れておいても他の車の動線に影響しない。合理的だ。
五月最初の土曜日だった。
朝から気温が高く、安全ベストの下のシャツが十時には肌に貼りついていた。アスファルトからの照り返しで視界が白っぽく揺れる。入口の脇に出した「満車・ドライブスルーのみ」の看板は段ボールに黒マジックで殴り書きしたもので、もう何度か雨に打たれて端のほうがふやけ、文字の輪郭がぼやけている。もう少しまともなものを作ってくれと支配人に言ったことがあるが、「そのうちね」と言われてそのままだった。そのうち、と臨機応変。この店はその二つの言葉で回っている。
十一時半、車椅子スペースに白いミニバンを一台待機させていた。運転席の女性は三十代くらいで、最初のうちはスマートフォンを見ていたが、十分を過ぎたあたりからこちらをちらちら見るようになった。視線に「まだですか」がにじんでいるのがわかる。申し訳ないとは思うが、中が空かない以上どうしようもない。
ようやく奥の一台が動いた。バックランプが灯って、ゆっくり通路に出てくる。よし、と思ってミニバンに向かって手を挙げかけた、その瞬間だった。
入口から車が一台入ってきた。
シルバーの軽自動車。フロントガラスの左下に、車椅子マークのステッカーが貼ってあった。看板を見たはずだ。あの看板は目に入らないほうが難しい位置に出してある。ふやけていても読めるはずだ。なのにそのまま進入してきて、ちょうど空いたスペースにするすると近づいていく。運転席の窓が開いて、こちらに片手を挙げた。入ります、という合図らしかった。
順番が違う。
ミニバンの女性の目を思い出した。十五分、黙って待っていた目。あの目の前で、今来た車を先に入れるわけにはいかなかった。
「すみません、先にお待ちの方がいるんで!」
声が通路に跳ね返った。自分の声が思ったより大きかったことは、反響で知った。駐車場は壁に囲まれているから、声がこもる。それは知っていたはずだった。
軽自動車が停まった。運転席から見えた顔は、怒っていなかった。驚いていた。目がすこし開いて、口元がわずかに止まった、あの表情。怒鳴られるはずのない場所で怒鳴られた人間の顔だった。
「あの、待ってる車って、どこに」
声は静かだった。静かだったぶん、さっきの自分の声との落差がはっきりした。
「車椅子マークのところに停まってる白いミニバンです。あちらが先にお待ちですので」
言いながら、据わりの悪さを感じた。車椅子スペースに停まっている車を「待機車」と説明するのは、口に出してみると思っていたより妙だった。でも他にどう言えばいいのかわからなかった。
相手は車椅子スペースのほうに目をやり、それからこちらに視線を戻した。何か言いかけて、やめる。口を開いて、閉じた。ハンドルを切って、ドライブスルーの列に戻っていった。
ミニバンを空いたスペースに誘導した。窓から軽く頭を下げられて、終わった。
終わったはずだった。
あの軽自動車を運転していた人の顔がしばらく残った。怒りなら対処のしようがある。こちらも怒るか、黙るか、謝るか、いくつか選択肢がある。だが驚きには返す手がない。こちらが間違っていたかもしれないという可能性だけが、選択肢もなくそこに置かれる。
夜、風呂に入りながら考えた。
湯船に浸かると、一日の場面が順繰りに浮かんでくる。うまくいった場面はすぐ流れていく。残るのは引っかかった場面だけで、今日はあの顔だった。
車椅子マークのことを考えていた。青い地に白い図案。あの国際シンボルマークの意味を知らないわけじゃない。知っていて、「今は誰も使っていないから」と思った。一ヶ月働いて、車椅子の表示を出した車が来たことは一度もない。一度もなかったから、あのスペースはいつも空いていた。空いていたから使った。
でも、あの軽自動車には車椅子のマークが貼ってあった。
明日、支配人に訊いてみようかと思った。車椅子スペースの扱いについて、何か決まりがあるなら教えてほしいと。でもあの顔がすぐに浮かぶ。ペットボトルの茶を片手に「臨機応変にやって」と言う顔。訊いたところで何が返ってくるか、一ヶ月の付き合いで想像がついた。訊いて、曖昧に返されて、結局は今と同じことを続ける。そういう流れしか見えなかった。
じゃあ自分で調べるか。ネットで検索すれば、法律上の決まりくらい出てくるだろう。スマートフォンに手を伸ばしかけて、やめた。風呂の中だ。あとでやろうと思った。
天井の換気扇がかたかたと回っている。湯が少しぬるくなっていた。
翌朝、出勤するとすでに暑かった。
安全ベストを着て、トランシーバーの電源を入れる。事務所の壁のクリアファイルが目に入ったが、中身は昨日と同じだった。当たり前だ。誰も何も足していないのだから、何も変わらない。
駐車場に出ると、十時前なのにもう半分以上埋まっていた。連休明けの反動なのか、客足が多い。入口近くの車椅子スペースは、いつものように空いている。
十一時を回った頃、通路に一台待ちが出た。外に出すか、通路に留めるか。通路に留めれば奥の車が出られなくなる。外に出せば道路にはみ出す。クリーニング屋の主人の話がよぎった。
車椅子スペースを見た。空いている。広くて、入口に近くて、動線を塞がない。
昨夜、風呂の中で何かを考えた気がする。スマートフォンで何かを調べようとした気がする。でもそれが何だったか、もうぼんやりしていた。朝の支度と通勤と着替えと、十時からの二時間のあいだに、昨夜の湯気ごと流れていってしまった。
「すみません、あちらに停めていただいていいですか」
運転手に車椅子スペースを指して、そう言った。丁寧な声が出る。自分の仕事をきちんとやっている感触があった。
六月に入って、隣のテナントのパートの女性と昼休憩がかち合った。
自販機の前で缶コーヒーを飲んでいると、彼女が出てきて隣に並んだ。しばらく天気の話をして、それから彼女がふと思い出したように言った。
「そういえば、去年の秋くらいだったかな。駐車場のことでお客さんからなんかあったみたい」
「なんかって?」
「詳しくは知らないんだけどね。なんか変わったなって思ったのよ、一時期。車椅子のところに車停めなくなったし、看板も新しくなったし」
「へえ」
「でもしばらくしたらまた元に戻ってたから。人が変わるとそうなるよね」
彼女はそれだけ言って、缶をゴミ箱に捨てて戻っていった。
俺はしばらくそこに立っていた。缶コーヒーの残りを飲みながら、去年の秋にあったらしい「なんか」のことを考えた。クレームだろう、おそらく。それで一度は改善されて、人が替わって、元に戻った。今の「元」は俺だ。俺がやっていることは、前の誰かがやって、怒られて、直して、そしてまた俺が引き継いだことになる。引き継いだつもりはなかった。誰にも引き継がれていないから。
クリアファイルのことを思い出した。あの中に、前回のクレームへの対応が一枚でも挟まっていたら、俺はたぶん最初から車椅子スペースに車を停めさせなかった。紙一枚あればいい。走り書きでもいい。「車椅子スペースを待機場所に使わないこと」、たったそれだけの一文でよかった。
でもなかった。なかったから知らない。知らないから、前と同じことをした。そしてたぶん、俺がいなくなったあとも、次の誰かが同じことをする。クリアファイルに何も足されない限り。
事務所に戻って、支配人に言おうかと思った。車椅子スペースの使い方を決めて、書いて、ファイルに入れておきませんかと。でも支配人は電話中だった。どこかの業者と納品の話をしていて、忙しそうにしている。
あとでいいか、と思った。
七月になった。安全ベストの下が毎日びしょ濡れになる季節だった。
段ボールの看板はもう限界で、文字が読めなくなっていた。俺が自腹でプラスチック板を買ってきて、マジックで書き直した。「満車・ドライブスルーのみご利用ください」。前よりは読みやすくなったと思う。支配人は「お、いいね」と言ったが、経費は出なかった。
車椅子スペースには、相変わらず待機車を入れていた。
支配人に言おうと思ったまま、もう二ヶ月が経っていた。言うタイミングを逃したのではなく、タイミングというものが最初から存在しなかった。支配人と駐車場の運用について話す時間は、この店のどこにも組み込まれていない。朝礼もなければ、月例のミーティングもない。何かあれば臨機応変に。何もなければそのまま。何もないように見えているだけで、実際には何かがずっとあるのだが、それは俺のところで止まっていて、上には届かない。
クリアファイルの中身は四月から一枚も増えていなかった。