四月の内科クリニックは、くしゃみの音で時計がいらない。三分に一度、誰かがティッシュを引き抜く音がして、その合間をぬうように受付の女性が番号を読み上げる。七番、八番。番号札の紙は薄い黄色で、端が少し丸まっている。発券機ではなく、受付カウンターの横に置かれたプラスチックのケースから一枚ずつ取る方式だった。ケースの横に「お取りになってお待ちください」と手書きのラミネートが貼ってある。それだけ。番号順に診察しますとは書いていない。
十三番。手のひらに収まる四角い紙に、マジックで書かれた数字。このクリニックにはもう三年通っている。花粉の季節だけ来て、いつもの薬をもらい、また来年。毎年同じことを繰り返している。
鼻が詰まっている。完全にではなく、片方だけ。左の鼻腔が粘膜で塞がれて、右だけで呼吸している。口を開けると喉が乾く。目は朝から痒くて、瞼の裏側にガーゼを貼りつけたようなごろごろした感じがある。頭の芯が綿を詰めたように重い。花粉症というのは、身体の輪郭がぼやける病気だと思う。痛みはない。熱もない。ただ全部がすこしずつ遠くなる。
椅子はプラスチック製の連結型で、壁に沿って二列に並んでいる。ほぼ埋まっていた。マスクの人が大半で、時おり誰かが目頭を押さえている。斜め前の席に、グレーのカーディガンを羽織った女が座っていた。年齢は六十代の後半から七十代くらいに見える。背筋は伸びていて、膝の上に小さなハンドバッグを置いている。来たときからそこにいた。
壁の時計は十一時二十分を指していた。九時半に家を出て、十時前に着いて、番号を取って座った。一時間と少し。隣の椅子の男が、二回目のくしゃみを肘の内側に埋めている。
「十三番の方」
受付の女性の声が届いた。立ち上がる。膝に置いていた薄い黄色の紙を右手に持ったまま、診察室のドアに向かって歩き始めた。
同時に、斜め前のグレーのカーディガンが動いた。
女が立ち上がっていた。ハンドバッグを腕にかけ、診察室のドアに向かっている。歩幅はゆっくりだが迷いがない。受付の女性が番号を呼んだのは聞こえていたはずで、その番号が十三であることも聞こえていたはずで、自分が十三番ではないことも理解っているはずだった。
受付の女性がこちらを見た。それから女のほうを見た。
「あの、十三番の方をお呼びしたんですが」
女が立ち止まった。振り返らなかった。背中がこちらを向いたまま、声だけがまっすぐ受付に向かっていた。
「わたし、先に来てますので」
低くもなく高くもなく、言い訳でもなく、抗議でもない。ただそういうものだから、という声だった。
受付の女性がもう一度こちらを見た。その視線には、はっきりした意味が載っていた。あなたが何か言ってくれれば。あなたが「僕の番です」と一言言ってくれれば、わたしは仕事としてそれを根拠に動ける。わたし一人では止められない。
口を開いた。声が出なかった。
鼻が詰まっている。息を吸おうとすると口からしか入らない。口から吸った空気は喉の奥で乾いて引っかかる。声帯のあたりが張りついているようなかんじがする。「すみません」の「す」を出そうとしたとき、喉の奥で空気が折れた。
女は診察室のドアの前に立っていた。
「番号ではお呼びいただきましたけれど、番号順でなければいけないとは、どこにも書いてありません」
受付の女性を見ていた。こちらではなく。言葉は柔らかくて、かたちだけがきっちりしていた。
「それと、わたし具合が悪いんです。これ以上はちょっと」
受付の女性の手が、カウンターの上で止まっていた。具合が悪いと言い張る高齢の女性を、お引き取りくださいとは言えない。番号を無視していることは全員がわかっている。でもそれを指摘するちからを持っている人間がこの場にいない。番号札という紙切れにそのちからがあるはずなのに、紙切れには声がない。
声を持っていたのは十三番の札を握っている人間で、その人間の鼻は詰まっていた。
診察室のドアが開いた。女が中に入った。ドアが閉まった。
受付の女性がこちらに頭を下げた。
「申し訳ございません。次にお呼びしますので」
椅子に戻った。座った。右手にまだ十三番の紙がある。
待合室の空気が動いた。声ではなかった。ざわめきとも違う。体温がほんの少し上がったような、椅子のきしみが増えたような、それだけの変化だった。顔を上げると、誰もこちらを見ていなかった。見ていないのに、聞こえた。
「あれ、言わないのかなあ」
独り言のような、隣の人に向けた呟きのような。声の出所がわからない。
「ねえ、ちょっとひどいよね」
「みんな並んでるのにね」
同意がつながった。小さな声が小さな声を呼び、それぞれが少しずつ大きくなる。ただしすべて、こちらに向けられたものではなかった。女に向けられたものでもなかった。女はもう見えない場所にいる。
残っているのは、番号を持っていたのに座り直した人間だけだった。
診察は五分で終わった。
先生はいつもどおりだった。目と鼻の症状を聞き、去年と同じ薬でいいですかと確認し、処方箋を出した。女のことには触れなかった。触れない理由があるのか、触れるほどのことではないのか。どちらにしても触れなかった。こちらも何も言わなかった。
処方箋を持ってクリニックを出た。隣の薬局で薬をもらった。薬剤師が袋のなかの錠剤の説明をして、副作用の項目を読み上げて、お大事にと頭を下げた。毎年同じやりとりだ。薬の名前も量も変わらない。変わったのは、薬局の自動ドアを出たあとの空気の温度くらいで。
歩いて帰った。四月の午後の陽射しは暖かくて、暖かいことが鼻の粘膜をさらに刺激した。くしゃみが三回出た。桜はもう葉桜に変わりかけていて、風が吹くと花びらではなく小さな萼が落ちてくる。アスファルトの上でそれが乾いて、色を失っている。歩道の端に止めてある自転車のサドルにも、花びらの茶色いなれのはてがへばりついていた。
商店街を抜けて、住宅街に入ったあたりで、こころが動き始めた。
怒りが来るはずの場所だった。割り込まれたのだから。自分の番号を無視されたのだから。受付が止められなかったことへのもやもやがあっていいし、女の態度へのいらだちがあっていい。でも来ない。来ないまま、代わりに残っているのは待合室の声だった。「言わないのかなあ」が耳の奥に貼りつき、アパートに向かう坂道を上るあいだ、何度もそれがくりかえされた。女の言葉よりもずっとくっきりと。
なぜ言えなかったのかを考え始めると、最初に来る理由は鼻だった。鼻が詰まっていた。声が出なかった。物理的に。でもそれは理由になるのか。鼻が詰まっていても「すみません」くらいは言える。言えたはずだ。言えなかったのは鼻のせいではなく。
では何のせいなのか。
受付の視線を思い出す。あの目。あなたが何か言ってくれれば。あの目が先にあって、言葉が出なくて、女がドアに入って、受付が謝った。あの順番。もし受付が先に「お客様、番号順です」と声をかけていたら、自分は何もしなくてよかった。受付が止めなかったから、自分が言う番になって、自分が言わなかったから、女が通った。
受付が動かなかったのは、こちらが黙っていたからなのか。こちらが黙っていたのは、受付が動かなかったからなのか。どちらが先でも結果は同じだった。女は診察室に入り、自分は椅子に戻った。でも原因のわけかたが違えば、恨みの向き先が変わる。自分を恨むのか、受付を恨むのか、女を恨むのか。恨みという言葉が大げさなら、もやもやの宛先、としてもいい。宛先のないもやもやは届け先なしで、差出人のところに戻ってくる。
アパートのドアを開けて、靴を脱いだ。洗面所で手を洗い、うがいをした。薬局の袋から錠剤を出して、水で飲んだ。抗ヒスタミン薬。効くまでに三十分ほどかかる。
ソファに座って、テレビもつけずにいた。窓の外で鳥の声がしている。何の鳥かはわからない。目を閉じると瞼の裏がまだ痒くて、指先でそっと押さえた。押さえたところが余計に痒くなる。花粉症の痒みはそういうもので、触れば触るほどひどくなるのに触らずにはいられない。あの出来事も、似ている。
待合室の人たちは、こちらを見ていた。見ていないふりをして、見ていた。「言わないのかなあ」は評価だった。あの場にいた全員が番号札を持っていて、全員が花粉症で、全員がルール側の人間だった。ルール側にいたのに声を出さなかった人間が一人いて、それが十三番だった。
割り込んだのは女だ。でも女は診察室に消えた。原因が消えたあと、結果だけが椅子に座り直した。責任の矢印が向く先は、残された人間しかいない。
《譲った》のだと思われている。
譲っていない。奪われたのだ。でもその区別は、外からは見えない。
三十分が経って、鼻が通り始めた。薬が効いている。粘膜が引いて、左の鼻腔に空気が入るようになった。頭の綿が少しずつ減っていく。呼吸が楽になり、視界の輪郭がはっきりしてくる。
澄んだ頭で考え始めてしまったのが、よくなかった。
鼻が通っていたら、言えたのか。
馬鹿な仮定だった。鼻の通りと発言のつながりなんか成り立たない。鼻が詰まっていなくても言えない人間は言えないし、鼻が詰まっていても言える人間は言える。でも、あのとき自分の鼻は詰まっていた。その事実がもしもを成り立たせてしまう。もし通っていたら。たしかめようのない仮定だから、否定もできない。
テレビをつけた。ニュースが流れている。画面の中で誰かが何かを説明していて、内容は頭に入らない。キャスターの声が一定のリズムで部屋に落ちていく。このリズムに意味があるのかないのか、考えようとして、やめた。意味があるかないかを考え始めると、あの女の言葉にも意味があったのかなかったのかという場所に着地してしまう。
風呂に湯を溜めて、入った。鼻から蒸気を吸い込むと、少しだけ通りがよくなる。湯船のなかで膝を抱えて、天井の換気扇を見ていた。ファンが回る音だけが浴室に満ちている。
三日後にも、五日後にも、あの場面は戻ってきた。
仕事中、パソコンの画面を見ているときに不意に来る。電車で吊り革につかまっているときに来る。コンビニのレジに並んでいるときに来る。特に、列の中にいるときに来やすかった。人が自分の前にいて、自分が自分の場所に立っている。その構図があの椅子と重なる。
繰り返し辿るうちに、あの女の論理を組み直している自分がいた。
「先に来ている」。番号札を取る前からクリニックにいた。おそらく本当だ。自分が到着したとき、すでにあの席に座っていた。番号札の順番と到着の順番が一致しないことは当然あり得る。受付が混んでいれば、先に来た人のほうが後の番号を引くこともある。来た順という基準に立てば、彼女は正しい。
「番号順でなければいけないとはどこにも書いていない」。あのラミネートには「お取りになってお待ちください」としか書いていなかった。番号で呼ぶことはならわしであってきまりではない。受付が番号を読み上げ、呼ばれた人が立ち上がる。全員が同意しているから成立している。その同意を書きとめたものは、どこにもなかった。
「具合が悪い」。本人がそう言えば、否定できる人間はいない。花粉症の鼻詰まりと、七十代の身体の不調を並べて、どちらが重いかをその場ではかる方法はない。番号札はそういう判定をすっとばすためにある。全員がその基準に同意しているから、誰も損をしない。
一人が同意しなければ、壊れる。
壊した人間が明確に存在しているのに、壊れた瞬間にその人間は診察室に消え、残された人間が壊れた結果を引き受ける。それが構造だった。あの日起きたことの。
ここまではならべられた。ならべたことで楽になるかと思えば、そうはならなかった。むしろならべたぶんだけ、次の段階に進んでしまう。
あの女は、悪意で動いていたのか。
怒鳴っていない。声を荒らげてもいない。「わたしのほうが先です」と泣きついたわけでもなく、受付に食い下がったわけでもない。自分の論理を述べて、結果としてそのとおりに動いた。あれが《悪意》だったのなら、対処は簡単だ。ひどい人に会った、ひどい目に遭った、終わり。悪意にはラベルが貼れる。ラベルを貼ればそれ以上考えなくていい。
でもあの場にあったのは、悪意ではなく論理だった。
自分の中にある前提に従って、自分の中で筋の通ったことをしただけだとしたら。同じことは明日も起きるし、別の場所でも起きる。番号を持っているのに、持っていない人間の論理によってひっくり返される。あのクリニックに限らず、レジでも、窓口でも、電車の座席でも。自分の順番が自分のものであるというあたりまえを、わかちあっていない人間はどこにでもいる。次がいつ来るかわからない。次が来たとき、やはり鼻は詰まっているかもしれない。鼻でなくても、何か別のものが詰まっている。
職場の昼休みに、同僚が割り込みの話をしていた。スーパーのレジで横入りされたという。「ありえなくない?」と同僚は笑っていて、自分も笑った。笑いながら、あの場面を思い出していた。その話には「で、言ったの?」と別の同僚が聞いて、「言ったよ、並んでますって」と返っていた。言えたのだ、その人は。言って、相手は引き下がって、終わった。あっさりした解決だった。言えば済むことを、言えなかった。それが全部だと言われたら、否定できない。
もうひとつ、どうしても消えない考えがある。
自分が《譲るべき》だったのではないか。
花粉症と、彼女の不調。三十代と、七十代。番号は自分のものだった。ルールも自分の側にあった。でも《人として》考えたとき、五分余計に座っていれば済む話だったのではないか。鼻は詰まっているが命に関わるわけではない。彼女のほうが辛そうに見えたかどうかは正直わからないけれど、少なくとも年齢は事実だ。
番号という仕組みは、そういうものさしをひとりひとりに委ねないために存在している。仕組みがこわされたあとの場所に立ったとき、《人として》という尺度が勝手に起動する。その尺度で測ると、三十代で花粉症の男が七十代の女性に「僕の番です」と言い張る姿は、正しくても美しくはない。
美しくないことは正しくないのか。
正しいことが美しくないなら、その正しさにはどれだけの価値があるのか。
この《人として》が、考えるたびにルールの足元を削っていく。番号札は正しい。自分が先であることは正しい。でも正しさの隣に、正しくなくてもいいのではないかという考えが棲みついて、消えない。消そうとすると、消そうとしたこと自体が《冷たい》という別の評価を連れてくる。
際限がない。
昼休みに弁当を開けながら、まだあの椅子に座っている。帰り道に信号が変わるのを見ながら、まだあの椅子に座っている。寝る前に天井を見ながら、まだ。
薬を飲み続けているから、鼻はもう詰まっていない。頭もはっきりしている。身体はもとに戻っているのに、あのときの身体の記憶だけが別の場所にしまわれていて、考えるたびによみがえる。喉の奥で空気が折れたあのかんじ。声にならなかった「す」の形に開いた口。右手に握った薄い黄色の紙。ぜんぶ、くっきり残っている。
消化できないものは、名前がないから消化できないのだと、このときはまだ理解っていなかった。
テレビだったか、誰かとの会話だったか、それとも動画のコメント欄だったか。正確には覚えていない。観光地でトビに食べ物を奪われた話を目にした。海辺のベンチでパンを食べていたら、上からまっすぐ降りてきて、手から直接もぎ取られた。笑い話として語られていた。笑い話として成立するのは、奪った側に悪意がないからで、悪意がないから誰も責められない。
コメントに誰かが書いていた。「あれは持ち方が悪いんだよ」。
ソファに座ったまま、腹筋が一瞬固くなった。息が途切れた。
あの女はカモメだった。
カモメは悪意で獲物を奪わない。腹が減っていて、食べ物がそこにあったから奪った。話し合いの余地はない。こちらの事情は関係ない。食べ物を持っていた側に反省を求める声すら出てくる。持ち方が悪い。警戒が足りない。奪われるほうに隙があった。
あの待合室で起きたことと、同じだった。
番号を持っていたのに奪われた。奪った側は悪意なく自分の論理で動いていて、交渉は成立しなかった。残された自分に向けて「言わないのかなあ」という声が飛んできた。持ち方が悪い。番号を持っていただけでは足りなくて、番号を主張しなければ自分のものにならない。主張しなかった人間が悪い。
名前がつくと、棚に収まる。
あの出来事はずっと、形のない塊として身体の底に沈んでいた。何に似ているかがわからなくて、だからどこにもしまう場所がわからなくて、考えるたびに形を変えて浮き上がってきた。番号のこと、受付の目のこと、待合室の声のこと、《人として》のこと。全部がばらばらの断片で、どこにも置けなかった。引き出しを開けてみても、サイズが合わない。怒りの引き出しには入らない。悔しさの引き出しにも収まらない。被害の引き出しは近いけれど、被害と呼ぶには自分も何かを怠っていた気がして、蓋が閉まらない。
カモメ。
そう名づけた瞬間に、断片がひとつの物語になった。奪う側と奪われる側がいて、奪う側に悪意はなく、奪われた側に責任が発生する。次にまた起きたとしても、「カモメだ」と思えばいい。構造が理解ってしまえば、構造に呑まれなくなる。名前のなかったものに名前がついて、棚に収まって、蓋が閉まる。
テレビの画面を見ていた。トビの映像はもう終わっていて、天気予報に変わっている。明日も晴れ、花粉は多い、マスクと薬を忘れずに。
ソファの背にもたれた。鼻は通っている。薬は朝飲んだ。頭は澄んでいる。
澄んだ頭のまま、もう一歩だけ先に行ってしまった。
カモメ、と名づけることで何をしたのか。
七十代の、グレーのカーディガンを着た女がいた。ハンドバッグを膝に置いて、背筋を伸ばして座っていた。具合が悪いのだと、穏やかな声で。先に来ているのだと、受付を見ながら。番号のことも、書いていないことも。その人間を、鳥にした。
鳥にしたから、楽になった。
あの女をカモメだと思ったとき、自分はあの女を人間として見ることをやめている。それぞれの事情を持ち、それぞれの判断で動き、自分なりの正しさを持っているかもしれない一人の人間を、悪意なく奪う鳥というひとくくりに押し込めた。そうすることで、《人として》の部分を考えなくて済むようにした。鳥に《人として》は適用されない。
でもあの女も、こちらを人間としては見ていなかった。番号を持ったじゃまなもの。どいてほしい何か。番号札の向こうにいる三十代の鼻の詰まった男が、なぜここに来ていて、どれだけ並んでいて、どんな一日のなかでこの時間をやりくりしたのか。たぶん一度も考えなかった。考える必要がなかった。じゃまなものには事情がない。
お互いに、相手を人間として扱わなかった。
あの瞬間の待合室には、二十人近い人がいたはずだ。全員が花粉症で、全員が番号を持っていて、全員がくしゃみをこらえていた。その部屋のなかで、自分とあの女だけが、相手を人間として見ることに失敗した。他の十八人は見ているだけの人だった。見ている人は人間を見ている。見ているからこそ「言わないのかなあ」が出てくる。
ただそれだけのことだった。
それだけのことが、番号札一枚で始まり、名前をつけることで終わった。終わった、ということにした。
洗面所に行って、鼻をかんだ。ティッシュを丸めてゴミ箱に入れた。明日の朝も薬を飲む。来週も仕事に行く。あのクリニックには来年の四月にまた行くだろう。番号を取って、椅子に座って、番号を呼ばれたら立ち上がる。それ以上のことは起きない。たぶん。
カモメという名前は、棚の上にある。収まっている。正しい場所かどうかは。