「佐山さんって、複雑な人だよね。」
僕がそう言ったとき、後輩の丸山が怪訝な顔をした。
「……悪口ですか?」
「は? なんで。」
「いや、複雑って。」
「褒めてるんだけど。」
丸山はペットボトルのお茶を一口飲んで、それ以上何も言わなかった。納得したのか、面倒になったのか、どちらかわからない顔だった。
佐山さんは隣の部署にいる、僕より三つ上の先輩だ。
たとえば後輩がミスをしたとき、佐山さんはまず笑う。でもその笑い方には、安心させようとする意図と、自分も同じことをやったことがあるという記憶と、それでも繰り返してほしくないという牽制が全部入っている。怒鳴る上司よりずっと正確に、相手の行動を変える。
飲み会で誰かが的外れな自慢をしているとき、佐山さんは否定しない。かといって同調もしない。相槌のトーンと表情の組み合わせだけで、「聞いているが評価はしていない」をやる。それが嫌味にならないのは、相手の承認欲求そのものは否定していないからだ。
僕はそういう佐山さんの、ひとつの言動の中に何層も意味が折り畳まれている感じがすごいと思っていた。だから「複雑な人」と言った。設計が精緻で、出力が多層的で、それでいて破綻がない。最大限の褒め言葉のつもりだった。
でも、その評価は僕の周囲では共有されなかった。
同期の野口に「佐山さんって複雑だよな」と言ったとき、野口は「まあ、何考えてるかわからないところはあるよな」と返した。
違う。何考えてるかわからないんじゃなくて、同時にいくつものことを考えているのが見えるという話なのだが、そう言い直しても野口の顔は晴れなかった。
別の場で、チームの飲み会のあと「今日の佐山さん、複雑だったな」と言ったら、「なんかあったの? 機嫌悪かった?」と心配された。機嫌の話はしていない。場の空気を読みながら、三人の会話を同時にハンドリングしていた佐山さんの手際の話をしていた。
どうやら僕が「佐山さんは複雑だ」と言うたびに、周囲には「佐山さんは扱いにくい」「佐山さんは面倒くさい」という情報として届いていたらしい。
あるとき、佐山さん本人に呼び止められた。
「ねえ、私のこと複雑って言ってるでしょ。」
言い方は穏やかだったが、目が笑っていなかった。
「言ってます。褒めてます。」
「うん、それは何となくわかってる。でもね、」
佐山さんはコーヒーのカップを両手で包んだまま、少し間を置いた。
「複雑って言われて嬉しい人、あんまりいないよ。」
「え、そうですか。」
「そう。面倒くさいって言われてるみたいに聞こえる。少なくとも、丸山くんにはそう伝わってたっぽいよ。」
丸山が広めたのか、と思ったが、それは本質ではなかった。
「僕の中では、佐山さんのいろんな面が全部見えてて、それが整合してるのがすごいっていう意味なんですけど。」
「それは嬉しい。」
「じゃあ。」
「でも、あなたに見えてることが周りにも見えてるとは限らないでしょう。」
その言葉が、しばらく抜けなかった。
帰りの電車の中で、考えた。
僕は佐山さんを見ていて、ひとつの表情の中にいくつもの層が見える。だからそれを「複雑」と呼ぶ。でも、層が見えていない人にとっての佐山さんは、「笑っている先輩」だったり「静かな人」だったり、もっとシンプルな一枚の像だ。そこに「複雑」を持ち込めば、その一枚の像にヒビを入れているように聞こえる。
そして、もっとまずいことに気づいた。
僕は佐山さんの層が見えることを、自分の観察力だと思っていた。周りが見落としているものを自分は拾えている、と。でもそれは同時に、自分に見えている層は他の全員にも見えているはずだ、という前提で「複雑」と言い続けていたことでもある。見えていない可能性を考えたことがなかった。
見えているのに言語化できないのだと思っていた。でもそうじゃなくて、そもそも見えていなかった。
人の層が読めることは、別にすごくない。読めているのが自分だけかもしれないと気づけないことのほうが、よほど問題だった。対象を精緻に見る目を持っていても、その目が自分にしかついていないという事実が見えなければ、意味がない。それは観察力ではなく、ただの独りよがりだ。
翌日、丸山にコーヒーを渡しながら聞いた。
「俺が佐山さんのこと複雑って言ったとき、どう思った?」
「正直、悪口かと思いました。」
「だよな。」
「なんか、扱いづらい人って意味かなって。」
「全然違った。」
「今はわかります。先輩、褒めてたんですよね。」
「褒めてた。でも褒め方が最悪だった。」
丸山は少し笑って、「まあ、わかりにくかったです」と言った。
佐山さんにはあとでメッセージを送った。複雑って言うのやめます、と書いたら、短く返ってきた。
「べつにいいけど。言うなら本人にだけにして。」
誰かのことを正確に見ているつもりで、その見え方が自分にしか成立しないことに気づいていない。そういう傲慢さには名前がない。悪意がないぶん、本人が最後まで気づきにくい。
僕は人の層が見える自分を、どこかで信頼しすぎていた。でも本当に必要だったのは、見えたものを言葉にする技術ではなく、見えていないかもしれない人の隣に立てる想像力のほうだった。
複雑なのは佐山さんではなく、たぶん、人と人の間のことだ。