十一月の土曜日、午後一時。
駅前の携帯ショップに入ると、自動ドアの向こうは思いのほか静かだった。白い床、白いカウンター、白い椅子。清潔というより、感情を持ち込まないでくださいという意思表示みたいな内装だ。観葉植物だけが、かろうじて生き物のふりをしている。
入口の発券機でタッチパネルに触れた。
新規ご契約。機種変更。修理・故障。料金プランのご相談。その他。
解約、という項目はなかった。
あるいは「その他」がそれを含んでいるのかもしれないが、含まれている側としては、わざわざ隠されたような気分になる。
「その他」を押す。吐き出された整理番号はB-38。カウンター上の電光掲示板にはA-12、B-22、C-05が並んでいる。頭のアルファベットが用件で分かれているらしかった。Bがその他だとすると、あと十六人。
椅子に座った。隣の男がスマートフォンを触っている。斜め前では女性が小さい子どもの手を握ったまま、掲示板をじっと見上げていた。子どもはとっくに飽きていて、椅子の脚を靴の爪先でこつこつ蹴っている。
Aの番号だけが、するすると進んだ。
呼ばれた客がカウンターに向かうと、スタッフが立ち上がって迎え、新しい端末のパンフレットを開く。声は聞こえないが、笑顔は見える。
Bは動かない。十五分でAが三つ進む間に、Bはひとつだった。
これは以前、ネットで読んだとおりだった。解約したい客はその他に回され、その他は後回しにされる。対策として、Aで番号を取り、カウンターに座ってから「やっぱり解約で」と伝える人がいるらしい。その投稿には百を超えるいいねがついていた。裏技、と書かれていた。本来の手続きを本来の窓口で受けることがなぜ裏技になるのか、誰も説明はしていなかった。いいねを押した百人は、説明がなくてもわかっていたのだろう。
やろうかと思った。発券機まで戻って、Aを押す。それだけのことだ。
けれどやらなかった。嘘をつくのが嫌だったのではない。嘘をつかないと対等に扱ってもらえない仕組みに、嘘をつくことで乗ったら負けだと思った。負け、という言い方が正しいのかはわからない。ただ、それは手続きじゃなくて攻略だ。サービスを受けるのに攻略が必要な時点で、何かが壊れている。
壊れたものに合わせなかった結果がこの待ち時間だ、と言われたら返す言葉はない。
一時間が経った。B-28。あと十。さっきの子どもはもういない。母親が諦めたのか用事が済んだのか。椅子の脚に靴のあとだけ残っていた。
向かいの椅子に、新しく座った男が話しかけてきた。
「Bですか」
「はい」
「解約?」
「はい」
「俺も」
苦笑していた。共犯者の顔だった。特別な連帯感はなかったけれど、わざわざ声をかけてくるくらいにはここに座っていることが所在なくて、わざわざ声をかけてくるくらいには、同じアルファベットに安心したのだろう。
一時間四十分で、B-38が掲示板に出た。カウンターの奥、端の席に案内される。
目の前のスタッフは若い男性で、お待たせいたしました、と頭を下げた。そのトーンには、何をお待たせしたのかについての認識は含まれていなかった。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「解約です」
相手の手が一瞬だけ止まった。止まった、というほどの間ではない。けれど止まらなかったとも言い切れない程度の途切れがあった。
「ご解約ですね。差し支えなければ、ご理由をお聞かせいただけますか」
聞かせたところで何も変わらないことはわかっていた。でも聞かれたので答えた。他社のほうが安かったので、先週乗り換えた。もう新しい回線は開通している。だからこちらの契約だけが残っている状態です。
スタッフの表情は変わらなかった。変わらなかったことのほうが、変わるより不自然だった。
「ご利用ありがとうございます。ちなみに、今月から新しい料金プランが出ておりまして……」
もう他社と契約したと、今言った。
「解約でお願いします」
「かしこまりました。念のためご案内だけさせていただきますと……」
「不要です。すでに他社で契約しているので、こちらとの契約が続いている間は二重で料金が発生しています。手続きを進めてください」
事実を言っただけだった。声は荒らげていない。けれど、スタッフの姿勢がほんのわずかに変わった。背筋が伸びたのか、あるいは引いたのか。こちらが不利益という言葉の周辺に触れた瞬間、空気の質が変わるのがわかった。クレームの予兆として処理された、と思った。不利益が発生しているという事実を述べただけで、警戒の対象になる。
自分の声が硬くなっていることはわかっていた。普段こういう話し方はしない。仕事では穏やかなほうだし、それは演技ではなくて素だった。でも今、目の前のこの人に穏やかであることは、この手続きがさらに長引くことを意味している。二重に払っている月額が、もう一ヶ月分増える可能性を含んだまま。
スタッフは端末を操作しながら何度か画面を確認した。契約内容、違約金の有無、SIMの状態。ひとつ確認するたびに画面を見せ、ここにサインを、ここにチェックを、と言う。手続きは丁寧だった。丁寧すぎた。丁寧さが速度を殺していることに気づいていないのか、気づいていてそうしているのか。前者なら教育の問題で、後者なら設計の問題だ。どちらにしても、この椅子に座っている一分ごとに私の土曜日が削れていくことには関係がなかった。
「それと、こちらのお手続きにはお時間がかかりますので、次回ご予約のうえご来店いただくことも可能ですが」
顔を上げた。
「予約というのは、いつですか」
「最短ですと、来週の水曜日に空きがございます」
一時間四十分待ったあとに、出直してこいと言っている。
来週の水曜に来たら、また発券機でBを取り、また椅子に座り、また番号が進まない掲示板を眺める。それで締め日をまたげば、二重の月額がもう一ヶ月伸びる。来店と待機にかかる時間は、私が負担する。交通費も私だ。この一時間四十分は、なかったことになる。
そのことをそのまま言えば、クレームになる。
「今日、ここでやります」
「かしこまりました」
スタッフが微笑んだ。その微笑みの読み方がわからなかった。
手続きが再開された。あと何ステップあるのかは説明されない。
カウンターの端に、小さなアクリルのプレートが立てかけてあった。「お客様のお声をお聞かせください」。QRコードの下に、小さく「よりよいサービスのために」と添えてある。
よりよいサービスとは何だろう。
この二時間と少しのあいだに、自分がしたことを反芻してみる。発券機でボタンを押した。椅子に座った。番号を待った。呼ばれてカウンターに来た。解約したいと言った。案内を断った。二重に課金されていると伝えた。予約を勧められても帰らなかった。全部、普通のことだった。声を荒らげてもいないし、無理を言ってもいない。
それでも、少なくとも三回、自分が面倒な客の輪郭をなぞった感触がある。不利益が出ていると口にした瞬間の、あのわずかな空気の変化。事実を述べているだけだった。二重課金は感想ではなくて算数だ。でもその算数を相手に突きつけた時点で、こちらは「声を上げた客」になった。
クレームを言いたいわけではない。やめたいからやめますと言っているだけだ。余計に払っているから早くしてくださいと言っているだけだ。でもそれを言わないと動かず、言えばクレーム扱いになる。
最初から手間がなければ、声を硬くする必要もなかった。それだけのことが、なぜ私の「お声」として回収されるのだろう。
手続きはさらに四十分かかった。合計で二時間半。最後に「ご解約のお手続きが完了いたしました」。薄い紙を一枚よこされた。控えだった。
「ありがとうございました」
口から「ありがとうございました」が出た。何に対する礼なのかは自分でもわからなかったけれど、出てきた言葉をわざわざ引っ込めるほどのことでもなかった。
立ち上がると、さっき声をかけてきた男がまだ座っていた。掲示板を見る。彼の番号にはまだ距離がある。目が合って、小さく頭を下げた。がんばってください、と思ったが、言わなかった。がんばる必要がないのが正しいのだから。
自動ドアが開いて外に出る。十一月の空気は冷たかった。二時間半前と同じ駅前の景色が、少し傾いた日差しの中にある。
ポケットからスマートフォンを取り出す。新しいキャリアの電波は四本立っていた。もう繋がっている。とっくに繋がっていた。繋がっていたのに、切るためだけに二時間半かかった。
ふと、さっきのアンケートのことを思い出した。「お客様のお声をお聞かせください」。QRコードは控えていないが、ウェブサイトからアクセスできるだろう。回線はある。時間もある。二時間半ぶんの空白が、予定表にぽっかり空いている。
試しに検索して、アンケートのページを開いた。
「本日のご来店の目的を選択してください」。選択肢は四つ。新規ご契約。機種変更。修理・故障。料金プランのご相談。
ここにも、解約はなかった。
画面を閉じて、駅に向かって歩き出した。