首が地に落ちる音を知覚して最後、ブラックアウトした。
それが何年前のことなのか、もうよくわからない。わたしには体がないので、体で時間を測ることができない。腹が減らない。爪が伸びない。髪が乾かない。季節の変わり目に膝が痛むこともない。ただ、手を持ち上げれば五本の指が見えるし、胸に掌を当てれば肋骨の輪郭がある。脈だけがない。どこを探しても、拍動だけがない。
生前、わたしは詐欺師だった。人を騙すことで息をしてきた人間だ。嘘を見抜く目だけは鋭い。自分自身の嘘にも。
この存在そのものが欺瞞であることは、死んだ瞬間から知っていた。
観察
志賀という男が、わたしの住んでいた部屋に越してきたのは偶然だ。
偶然だと思う。少なくとも、わたしが呼び寄せたわけではない。死者にそんな力があるとも思えない。ただ、この部屋にはわたしが残っていて、志賀がそこに来た。事故物件の告知義務はとうに切れていたので、志賀はわたしの死を知らなかったはずだ。
最初の三ヶ月、わたしは黙って観察していた。職業柄の癖だった。
志賀は三十代の半ばで、身長はわたしより少し低く、肩幅が広い。鎖骨の形がいい。仕事はどうやら翻訳で、朝の九時から夕方まで、リビングに置いたデスクでキーボードを叩いている。昼食はだいたいうどんか、前の晩の残りだった。土曜日だけ走りに行く。帰ってくると玄関で靴を脱ぐ前に、立ったまま水を飲む。喉が動くのが見える。
三ヶ月間、わたしは一言も発さなかった。発する必要がなかった。生きていた頃から、わたしの仕事の九割は観察だった。相手の呼吸、視線の動き、指先の落ち着きのなさ。見ているだけでたいていのことはわかる。この男は、ひとりでいることに慣れているが、好んでいるわけではない。食器をひとつだけ洗うときの手つきに、そういう種類の諦めが見えた。
声をかけたのは、四ヶ月目の夜だった。志賀が翻訳の手を止めて、椅子の背もたれに頭を預け、天井を見上げたとき。
「肩、凝ってるでしょう」
志賀は天井を見たまま三秒ほど動かなかった。それから、ゆっくりと首を左右に振った。恐怖ではなかった。何か聞こえたが信じたくない、という動き。
「左の僧帽筋。もうずいぶん前から張ってるのに、ほぐさないね」
「……誰」
「この部屋に前に住んでた者」
志賀は椅子から立ち上がり、部屋を見渡した。わたしの姿は見えない。当然だ。この時点ではまだ、わたしは声だけだった。
「幽霊か」
「詐欺師」
「は?」
「生前は詐欺師。死んでからはわからない。幽霊と呼びたければどうぞ」
志賀は壁に背をつけたまま、腕を組んだ。怖がってはいた。でも出ていかなかった。それがわたしには、少しだけ意外だった。
先入観
志賀がわたしの存在に慣れるまでに二週間かかった。
慣れる、という表現が正しいのかはわからない。ただ、声をかけても椅子から飛び上がらなくなった。わたしの声がする方角に自然と顔を向けるようになった。
「姿は見えないのか」
「見せようと思えば見せられるけど。まだいいよ」
「なんで」
「見た目がいいから。先入観が入る」
志賀は鼻で笑った。詐欺師が見た目を気にするのか、という意味だったのだと思う。違う。見た目がいいことは、詐欺師にとっていちばん扱いの難しい武器だ。使い方を間違えてはいけない。美貌も頭脳も時間も言葉も。わたしはかつてそのすべてを使い、世界を変えられると信じた。結果、首が落ちた。
「見せて」
二週間目の夜に志賀が言った。
わたしは姿を出した。生前の姿だ。首がつながった状態の。長い髪、細い顎、少し吊り上がった目。初対面の人間がまず顔に目を留めて、次に警戒心を一段下げる。そういう顔だった。
志賀はわたしを見て、何も言わなかった。五秒、十秒、十五秒。
「……ああ、たしかに先入観入るな」
それだけ言って、キーボードに向き直った。
お互い人心掌握には長けている。まあ、こちら人ではないが。
信仰と詐欺
同居というものが始まった。
わたしは家賃を払わない。食事もしない。風呂も使わない。ただそこにいて、志賀が仕事をしている横で本を読んだり、志賀が作った夕飯の匂いを嗅いだりしていた。匂いはわかる。味はわからない。
「詐欺師って、具体的に何をしてたんだ」
「人に嘘をついてお金をもらっていた」
「それは知ってる。どういう嘘」
「相手が信じたい嘘」
志賀は箸を止めた。
「バイアスに適合すると信じてしまう。結果、信じたいものしか信じない。人間の認知はそういうふうにできてるから、そこに乗せればいい。難しくはない」
「不安で孤立している人が見やすい傾向にある、みたいなやつか」
「よく知ってるね」
「翻訳の資料で読んだ」
志賀はうどんの残りを啜った。
「それで、首を落とされるようなことをしたのか」
「そう」
「何をした」
「世界を浄化できると思った」
志賀はまた箸を止めた。今度はすこし長く。
「……それは詐欺じゃなくて、信仰だろ」
わたしは答えなかった。信仰と詐欺の境界は、詐欺師であるわたしにもわからなかった。
甘い毒
触れたのは、志賀のほうが先だった。
わたしの姿が見えるようになってから一ヶ月ほど経った夜のことだ。志賀がソファでうたた寝をしていて、わたしがその隣にいた。正確には、三十センチほど離れて座っていた。距離はいつも保っていた。触れるのが怖かった。触れられるはずがないのに触れてしまったら、この嘘が本当になってしまう。
志賀が寝返りを打って、手がわたしの膝に落ちた。
わたしは動けなかった。
温度があった。志賀の掌の温度が、存在しないはずのわたしの膝に伝わっていた。生きていた頃より、ずっとはっきりと。
志賀が目を開けた。手の下にある感触に気づいて、ゆっくりとわたしを見た。
「……触れるんだな」
「みたいだね」
「冷たくない」
「そう」
志賀はしばらくわたしの膝に手を置いたままだった。引っ込めなかった。わたしも払わなかった。
「怖くないの」と訊いた。
「何が」
「死んだ人間に触ってるんだよ」
「知ってる」
志賀は手を持ち上げて、わたしの手首を掴んだ。骨を肉から削り出すような力加減で。押し付けるように。存在を確認するように。
「肌がある。骨もある。脈がないだけだ」
「脈がないって、けっこう致命的だと思うけど」
志賀は笑わなかった。わたしの手首を掴んだまま、親指の腹で爪の付け根をあやすように撫でた。
「生きてた頃も、こういうことしてたのか。人に触れて、信用させて」
「それはひどく甘い毒、ってやつだよ」
「自覚はあるのか」
「あるから厄介なんだ」
引き結んでいた唇の端から、はあ、と息が漏れた。息をする必要はないのに、この体は勝手に呼吸を真似る。
輪郭
深い意味なんてない、と最初は思っていた。
ただの粘膜の擦りあいだ。もう体だってとうにないのだ。だとしたら、この行為の意味はなんだろうか。
志賀の指が手首のボタンを外すとき、震えていた。わたしの指ではなく、志賀の指が。生きている人間の指が、存在しないはずの衣服を、存在しないはずの体から剥がしていく。
やわらかでいて少しざらついた声でわたしの名前を呼んだ。生前の名前だ。偽名だらけの人生で、本当の名前を知っている人間はもういなかった。志賀にだけ教えた。なぜ教えたのか、自分でもわからなかった。
ざわりと湧き立つ。すぐに引き摺られる。
体の奥の奥が痺れて熱くなる。体がないのに。奥も表面もないはずなのに、志賀の指が辿ると、輪郭のないはずの体に輪郭が生まれる。ここからここまでがわたしで、ここから先が志賀だと、触れられることで初めてかたちになる。
呻きとともに根元まで穿たれたとき、肺から空気が押し出された。肺も空気もないはずだが、押し出された。こぷり、と漏れた気泡にそっと口づけられた。次は首筋だった。かつて刃が落ちた場所に。志賀はそれを知っていて、そこに唇を寄せる。
陰嚢に下生えを押し付けられ、ひどい摩擦のような、それでいて甘い痺れが背骨を駆け上がった。支配欲は間違いなくあった。志賀の中に。わたしの体がないことを知りながら、在るものとして扱う。それは創造に近い行為だった。存在しないものに存在を与える。もっとも優しい種類の暴力。
溢れたものが泡立つほどだった。存在しないはずの体液が、存在しないはずの場所から。嘘だ。全部嘘だ。詐欺師のわたしが、死んでなおこの世界を騙している。体があるふりをして、快楽を感じるふりを。
ふりを、しているのか。
いっそ喰ってくれ、と思った。この嘘ごと、この存在ごと、噛み砕いて飲み込んでくれ。そうすればわたしは志賀の中で本物になれる。
事が終わった後、志賀がわたしの背骨に沿って手のひらを下ろしていくのを感じていた。壊したものを確かめるように。壊れていないことを確かめるように。
「お前をお前たらしめているものの一部に」
志賀がぽつりと言った。天井を見ていた。
「俺は入ってるか」
「入ってるよ」
「嘘だろ」
「嘘かもしれない」
わたしは笑った。志賀も笑った。詐欺師が本当のことを言うときの声を、志賀はもう知っている。
禁忌
天国を信じるなら神様を信じなきゃいけなくなる。わたしはどちらも信じない。死への憧憬があった。生というものへの執着が希薄で、人足らざる者への憧れがあって、人間は面倒だと思っていた。感情は煩わしいし、肉体は脆い。だから死を選んだのではない。死に憧れたのだ。死の側から生を眺めれば、すべてが明瞭になるのだと思っていた。
明瞭になど、ならなかった。
死んでみてわかったのは、生きていた頃よりずっと、この感情が手に負えないということだった。体がないぶん、感情の逃げ場がない。皮膚がないから汗をかけない。涙腺がないから泣けない。発散するための器官がひとつもないまま、志賀への感情だけが際限なく膨れていく。
詐欺師にとっていちばんの禁忌は、自分の嘘を信じてしまうことだ。
わたしは信じている。この手が触れている感覚を。この体が悦んでいる痺れを。存在しないはずの全部を。
ジェンガって知ってるか、と志賀が言ったことがある。実際、抜くときにばかり気をとられるが、大事なのは組み上げるときだ。わたしと志賀の関係もそうだ。壊れるときのことばかり考えているが、大事なのはたぶん、いま積み上げている、この一個一個の夜のほうだ。
朝、志賀がコーヒーを淹れる匂いで、わたしの一日が始まる。腹は減らない。味もわからない。でもあの匂いだけは、生きていた頃の朝と地続きでいさせてくれる。
志賀がデスクに向かう。キーボードの音がする。ときどき唸って、ときどき笑う。翻訳の仕事は志賀に合っている。他人の言葉を自分の言葉にする作業。それは、ある意味ではわたしがしてきたことと似ている。他人の望みを読み取って、それにふさわしい自分をつくる。ただ志賀のそれは、嘘ではない。
「ねえ」
「ん」
「わたしはいつまでここにいられるの」
志賀はキーボードを打つ手を止めなかった。
「知らない。お前のほうが詳しいだろ、そのへんは」
「死者のことは死者にもわからないよ」
「じゃあ誰にわかるんだ」
「誰にもわからない」
志賀はようやく手を止めて、振り向いた。
「じゃあ考えても仕方ないだろ」
そう言って、キーボードに向き直った。その背中の、肩甲骨のあいだの、わたしの手のひらひとつぶんの場所を見ていた。
上手に言葉を操り大人のふりをしたところで、たかだか生と死の差などないに等しいのかもしれない。少なくとも志賀はそう振る舞っている。ふりなのか本気なのか。
どちらでもいい。それがどちらであっても、わたしがここにいたいと思うことは変わらない。
考えても仕方ない
志賀が寝入った後も、わたしは眠れない。眠る必要がないからだ。
隣で志賀の呼吸が深くなっていく。吸って、吐いて、吸って、吐いて。生きている人間の呼吸は規則的なようでいて微かに揺らぐ。その揺らぎをずっと聴いている。聴きながら、志賀の寝顔を見ている。昼間の無愛想が全部抜けて、年齢よりずっと幼く見える。
朝のコーヒーの匂い。キーボードの音。走りに行って帰ってきた後の、玄関で水を飲む喉の動き。夜、わたしの名前を呼ぶざらついた声。首筋に唇を寄せるときの、壊さないようにという力加減。
常に手元に写真を置いて、事あるごとにそれを見返すように。麻薬のように、ルーティンのように。わたしは志賀を思い返す。いま隣にいるのに、思い返す。いつかここにいられなくなったときのために、全部覚えておこうとしている。
その自覚が喉の奥にせり上がってきて、鼻を啜った。笑ったのか泣いたのか、自分でもわからなかった。涙腺がないのだから泣けるはずもないのに、頬が濡れていた。存在しないはずの涙が、存在しないはずの頬を伝っている。
嘘だ。
嘘であってくれ。
そう祈ること自体が、もうとっくに本物だった。
思い返すたびにそれは積み上がって、ジェンガのようにいつか崩れるかもしれないが、今はまだ立っている。
或る詐欺師は死んだ。死んで、嘘をつけなくなった。嘘をつけなくなった詐欺師は、もう詐欺師ではない。
では何なのか。
それは志賀にも、わたしにも、わからない。わからないまま、今夜も志賀の隣にいる。脈のない胸を、志賀の背中に押し当てている。体温が移る。わたしから志賀へではなく、志賀からわたしへ。いつも、もらってばかりだ。
それでいいのかと訊いたら、志賀はたぶんこう言うだろう。
考えても仕方ないだろ。
その通りだ。考えても仕方ない。だからわたしは目を閉じる。瞼がないのに、閉じる。暗闇の中で志賀の体温だけを感じている。もうそれは生者ではないのだとわかっているのに。
理解っていて、まだここにいる。