彩乃がチケットの確保に成功したのは、日本時間の午前三時だった。
画面に「Confirmed」の文字が出たとき、声は出なかった。声を出してよかったのに、隣の部屋で母が寝ているから、とかそういう理由ではなく、そもそも喉が動かなかった。両手の指先がじんじんして、スマホを持つ力加減がわからなくなっていた。八万四千円。VIPミート&グリートつきのチケットで、通常席の三倍以上する。三倍以上するものを午前三時に買った、ということの重さが、十分くらい経ってからようやく胸に降りてきた。
エリオット・ヘインズ。
映画で知った俳優だった。二〇二〇年の冬にサブスクで観た『リグレット・ノーツ』で初めて顔を認識して、そこから出演作を遡った。テレビシリーズの『ザ・クリニック』、サブスクオリジナルの戦争映画、声の出演のアニメーション。どれも観た。観るたびに好きになる、というよりは、この人が出ているものなら観る、という順番がいつの間にか成立していた。推しという言葉は使っていなかった。使わないでいられる程度の距離感で見ていたつもりだった。チケットに八万四千円を払うまでは。
払ったあとの自分はもう、つもりでは済まない場所にいた。
ロンドンのアルマ・シアターで上演される舞台『ザ・ウォッチマン』。エリオット・ヘインズが三年ぶりにステージに立つ。ニュースを見たのが一月で、一般発売が三月で、VIPパッケージの先行抽選が二月だった。日本から応募できるのかどうかすら最初はわからなかった。現地の購入サイトで日本のクレジットカードが通るか、住所の入力フォーマットはどうなっているか。調べて、試して、弾かれて、VPNを変えて、もう一度試した。もはや祈りに似ているな、と思った。午前三時に。
スクショを撮って、推し活アカウントに投稿した。画像は予約確認画面の一部だけを切り取って、座席番号と個人情報が映らないように加工して。「取れた……」とだけ書いた。三十分後にはいいねが二十くらいついていた。フォロワー四百人のアカウントにしては多いほうだった。
このアカウントには彩乃という名前はどこにもない。アイコンは旅先で撮った空の写真で、プロフィールには「UK俳優と舞台が好き」とだけ。フォローしているのは同じ界隈の人たちと、公式アカウントと、チケット情報のbot。日常垢とのつながりは一切ない。同じ端末に入っている二つのアカウントは、画面の切り替えひとつで別の人間になる。そのことに後ろめたさはなかった。推し活の投稿を地元の友だちに見られたくないのは隠しているのとは違う。棚の引き出しが分かれているだけのことだった。
翌朝、友だちの奈央にチャットを送った。
「ロンドン行くことにした。六月」
翻訳の仕事をしている奈央は大学の同級生で、卒業してからロンドンに渡って、もう八年になる。彩乃がエリオット・ヘインズの話をできる相手は限られていて、奈央はそのうちの一人だった。正確に言えば、奈央はエリオットのファンではないが、ロンドンの舞台事情には詳しかった。誰かのファンをやっている友だちの話を、面白がって聞いてくれる種類の人だった。
「マジで。ウォッチマン? VIP取ったの?」
「取った。震えた」
奈央の返信は速かった。打ちながら考えるタイプは、文面の勢いがそのまま体温になる。
「やばいじゃん。じゃあさ、現地の子紹介するよ。ソフィ。前に話したかも。めちゃくちゃ舞台通ってる子」
「ソフィ?」
名前に聞き覚えはなかった。奈央の交友範囲は広くて、彩乃が把握しきれていない名前がいくつもある。
「ソフィ・キャンベル。わたしの同僚の友だちの友だち、みたいな感じなんだけど、エリオットの舞台何回も観てる。アルマも行ったことあるはず。日本語ちょっと話せるよ」
ちょっとがどの程度かは聞かなかった。紹介してもらうことにした。
六月のロンドンは、空が遅くまで明るかった。
ヒースローに着いたのが現地時間の朝六時。ホテルにチェックインできるのは午後だったから、荷物を預けてそのまま外に出た。六月のロンドンの空気は冷たく乾いていて、成田を発ったときの湿度がうそのようだった。地下鉄の階段を降りるときに、自分がここにいることのリアリティの薄差を自覚した。十二時間前まで多摩市のワンルームにいた人間が、八万四千円のチケットをバッグに入れてピカデリー線に乗っている。チケットを手に入れてから、ずいぶんと猶予はあったはずなのに、決済した勢いのまま、ここに来た感が否めない。推しと同じ地を踏んでいる。その事実が、自分の定着するまでにはまだ時差がある。
奈央とはカムデンで待ち合わせた。ハイストリートの角のカフェで、奈央は先に着いていて、フラットホワイトを飲んでいた。
「彩乃、ちょっと痩せた?」
痩せてはいない。むしろチケット代で食費を削った反動で体重は微増している。定番の挨拶というやつだ。それに習って、彩乃も「奈央こそ」と返す。このやり取りにさしたる重さはない。
奈央がスマホを取り出して画面を見せた。
「ソフィからメッセージ来てたね。今日の夜、合流できるって。劇場の近くで」
「うん。よろしくって伝えて」
奈央はカップを置いて、呆れたような顔をした。
「自分で言いなよ、グループチャットに入ってるんだから」
そうだった。三日前にチャットのグループが作られていた。ソフィが「Hi Ayano! So excited to meet you!」と送ってきて、彩乃が「Hi Sophie! Me too, thank you!」と返して、そのまま止まっていた。ソフィのプロフィール写真は犬を抱いている女性で、二十代後半くらいに見えた。
公演は夜の七時半開演だった。
ホテルに荷物を入れて、シャワーを浴びて、着替えた。何を着るか迷ったのは前の晩からで、結局は黒いブラウスにグレーのパンツにした。VIPの写真に映ることを考えると、無地の服がいちばん無難だった。ロゴや柄が入っていると、推しの服とバッティングした時がちゃがちゃする。誰に教わったわけでもないが、そういうことを自然に計算するようになっていた。
劇場の最寄り駅で降りて、改札を出たところにソフィがいた。
写真のイメージより少し背が高い人だった。暗い金髪をひとつに結んで、デニムジャケットにスニーカーという格好で、劇場に行く人の服装には見えなかった。ソフィは彩乃を見つけると、満面の笑みで手を振った。
「Ayano! Hi!」
握手ではなくハグだった。初対面でハグされることに身体が一瞬固まったが、ソフィのハグはさらっとしていて、抱きしめるというよりは肩に手を置いて近づいた程度のものだった。
「奈央が連絡くれた。VIPなんだね、すごい」
日本語がちょっと話せる、と奈央は言っていたが、ちょっとではなかった。文法はときどき崩れるけれど、語彙がしっかりしていて、何より言い淀まない。
「ソフィはチケット持ってるの?」
「うん。通常席。四回目」
おぉ、四回。彩乃は声に出さずに繰り返した。
「うん。好きだから」
同じ舞台を四回観る人が、通常席で。彩乃はVIPを一回で、八万四千円。その比較が一瞬よぎったけれど、ソフィの屈託ない顔をみて、すぐに頭の端へと追いやった。
劇場に向かって歩きながら、ソフィが街のことを話してくれた。あの角のパブは公演前に役者が来ることがある。この通りは楽屋口に近い。彩乃はうなずきながら聞いていた。楽屋口という単語が出たとき、何かが引っかかったが、それが何かは考えなかった。
アルマ・シアターは小さかった。
小さい、というのは悪い意味ではなくて、客席から舞台までの距離が短いということだった。映画のスクリーン越しにしか見たことのなかった人間が、あの距離に立っている。照明の色が変わるたびに表情の陰影が変わるのが見えた。声の振動が空気を通じて胸骨に届いた。マイクを通さない声がこんなに違うものだとは思わなかった。
舞台の内容を言葉にするのは、あとでも難しかった。『ザ・ウォッチマン』は、真夜中のビルを巡回する警備員の話で、独白が多くて、照明が暗くて、英語の台詞を全部は聞き取れなかった。でもエリオット・ヘインズの身体の使い方は、映画とはまったく別のものだった。カメラが拾うためではなく、空間に放つための動き。膝の上に用意していたメモは気づいたら握りしめたまま、くしゃくしゃになっていた。
カーテンコールで立ち上がった。周りも立っていた。拍手の音が反響して、小さな劇場を満たした。エリオットが微笑みながら頭を下げるのを見て、涙が出るかと思ったが出なかった。泣くほど感動した、と言ったほうが美しいのに、実際には身体がぼうっとして、感情が追いつかないまま幕が降りた。
VIPミート&グリートの集合場所はロビーの奥だった。
ロビーで合流したソフィと感想を言い合う間もなく、スタッフの案内が聞こえた。「楽しんで」と手を降るソフィに、彩乃はうんと返すので精一杯だった。
VIPの列にはすでに二十人くらいの人が並んでいた。スタッフがひとりずつ名前を確認して、番号順に呼ばれる。何度も自分の番号を確認しながら待っていると、列の前のほうに並んでいる人たちの会話が聞こえた。ロンドン在住の人、ニューヨークから来た人、ドイツから来た人。彩乃の前に並んでいた女性は友人と二人組で、「三回目のVIPだけど今回はいちばん列長いね」と話していた。三回目のVIP。緊張をほぐそうと頭の中で金額の端数を計算しているうちに、番号が呼ばれた。
小さな部屋に通された。テーブルの上にペンとポスターが置いてある。奥にエリオット・ヘインズが立っていた。写真で見るよりも細くて、舞台の照明の下よりも普通の顔をしていた。普通の、と思ったのは、目の下に薄く疲れの色があって、肌の質感が人間だったからだった。当たり前のことなのに、画面越しの人間に実際の肌の質感があることが新鮮だった。
「Hi, where are you from?」
「Japan.」
エリオットの目が少し開いた。驚いたというよりは、関心を向ける動作だった。
「Oh, amazing. Thank you for coming all this way.」
ありがとう、と言われて、いえ、と日本語が出かけた。英語が出てこなかった。舞台の感想を伝えたかった。素晴らしかったです、と言いたかった。事前に練習した文章があったのに、一語も出てこなかった。
「It was wonderful」とだけ言った。
エリオットが笑った。舞台の上で見た笑い方とは違う、疲れた顔のまま笑う笑い方で、その落差のほうが舞台そのものより心に残った。
写真を撮った。スタッフがスマホを受け取って、エリオットの隣に立つように指示された。距離は腕一本ぶんくらい。肩が触れるほど近くはない。エリオットが軽く体を傾けて、フレームに収まるように調整してくれた。一枚。確認の時間はなかった。ポスターにサインをもらった。ペンの走る音がした。
「Thank you」
「Thank you」
同じ言葉を交わして、それで終わりだった。入室から退室まで、たぶん一分半か二分。次の人がもう入り口に立っていた。
廊下に出た。すれ違った次の人が緊張した顔をしていて、ああ自分もあんな顔だったんだろうなと思った。ポスターを丸めてクリアファイルに入れた。手が震えていた。嬉しかった。嬉しかったけれど、嬉しさの輪郭がぼやけていた。一分半の会話に八万四千円を払ったことの重さと、一分半でも直接会えたことの軽さが、天秤の上で揺れていた。
VIPエリアを出て、ロビーを通り抜けて、劇場の正面に出た。外の空気を吸おうとして、スマホを見た。ソフィからチャットが来ていた。
「こっちにおいで。楽屋口」
地図のピンが添付されていた。劇場の建物を回り込んだ先、裏手の細い通りを指している。
行く、とも行かない、とも返さなかった。ただ、スマホを持ったまま歩き出して、ソフィのピンの方向に足が向いていた。考える前に身体が動いていた。VIPで会えたのだから、もう十分なはずだった。十分のはずなのに足が止まらなかったのは、ソフィが待っているからだった。ソフィのいる場所に行く。エリオットに会いにいくのではなく、ソフィのところに行く。そういう理屈を組み立てた覚えはないのに、足は無意識に速度を上げていた。
角を曲がると、二十人くらいの人が壁に沿って立っていた。金属製の柵があって、その向こうに鉄扉がある。鉄扉には何の表示もなかったが、楽屋口だということは雰囲気でわかった。立っている人たちの手にはプログラムやペンが握られていて、スマホを構えている人もいた。騒がしくはない。ざわめきとも違う、低い期待の気配が通りに漂っていた。
ソフィが手を振っていた。柵の二列目くらいにいて、隣に場所を空けてくれていた。
「VIPどうだった?」
「すごくよかった」それ以上の言葉が出なかったし、出す必要もなかった。ソフィはうなずいて、柵の向こうを見ていた。
「ここで待つと出てくるの?」
「だいたいね。出てこない日もある。でも今日は出てくると思う。土曜だから」
土曜だから。その判断基準が彩乃にはわからなかった。けれど、ソフィの勘を初心者の彩乃が疑う理由はない。
隣に立って、待った。六月の夜九時半で、空にまだ薄い光が残っていた。ロンドンの夏の夜は遅い。東京ならとっくに暗い時間なのに、建物の輪郭がまだ見える。不思議な時間帯だった。昼でも夜でもない空の色が、自分が立っている場所の不確かさと似ていた。
鉄扉が開いた。
歓声が上がった。大きな声ではなかった。息を吸う音が二十人ぶん重なったような、低い、押し殺した歓声だった。エリオット・ヘインズが出てきた。Tシャツにジャケットを羽織って、舞台化粧を落としたあとの素の顔で、さっきVIPで見た顔よりもさらに普通だった。汗が引ききっていないのか、額に髪が張り付いていた。
エリオットは柵の端から順番にファンのほうへ歩いてきた。サインをして、写真を撮って、短い言葉を交わして、次の人へ。段取りなどない。スタッフが一人だけ後ろに立っていたが、仕切る気配はなかった。エリオットが自分の判断で、一人ひとりに向き合っていた。
ファンがプログラムを差し出せばサインをする。スマホを向ければ写真に応じる。そして、手を広げたファンにはハグを返していた。
ハグ。
VIPではなかった接触がある、ということに彩乃はこの時点では何も思わなかった。何も思わなかった、というのは正確ではないかもしれない。思う暇がなかった。エリオットが一人ずつ近づいてくる。その距離が縮まるたびに心拍が上がって、比較だの分析だのをする余裕が脳から消し飛んでいた。
彩乃の前にいた女性がエリオットとハグをしているのが見えた。女性は泣いていた。エリオットが背中に手を当てて、何か言葉をかけていた。聞こえなかった。距離にして二メートルの出来事なのに、二人の間に閉じた空間が見えた。
彩乃の番が来た。
「Hi again」
覚えている。さっきVIPで会ったことを覚えている。彩乃の顔を見て、一瞬だけ表情が変わった。ああ、さっきの子だ、という認識が目に浮かんだのが見えた。
「Oh, you came here too.」
彩乃はうなずいた。英語が出なかった。さっきと同じだった。
エリオットがプログラムにサインをしてくれた。VIPのときにはポスターだった。今度はプログラム。ペンの持ち方が違った。VIPでは机の上で書いていたから姿勢が安定していたが、ここでは立ったまま、ファンが差し出したプログラムの上に書いている。字が少し崩れていた。
サインを受け取った。「Thank you」。エリオットが手を広げた。
ハグだった。
VIPにはなかったハグが、ここにある。段取りのない、スタッフの仕切りのない、エリオット自身の判断による接触。彩乃の肩にエリオットの手が触れて、軽く引き寄せられた。二秒か三秒。エリオットの体温と、洗い残しの舞台化粧の匂いと、ジャケットの布地の感触が、一度に押し寄せた。
離れたあと、彩乃の目に涙が浮かんでいたかどうかは、自分ではわからなかった。たぶん浮かんでいなかった。泣くかわりに、息を止めていた。
ソフィが隣で笑っていた。
「よかったね」
「うん」
うん、しか出なかった。
劇場を離れて、ソフィと近くのパブに入って、一杯だけ飲んだ。ソフィはサイダーを頼んで、彩乃はジンジャービアにした。アルコールを入れたら今日の記憶が溶けてしまう気がした。
「エリオット、いい人でしょ」
「うん。すごくいい人だった」
ソフィがサイダーのグラスを傾けて、氷の音を鳴らした。
「いつもああなの。出てきて、全員に会って、帰る。マネージャーに怒られてるって噂もあるけど」
彩乃は笑った。笑いながら、VIPの一分半と、ステージドアの三十秒を、頭の中で並べていた。並べてはいたが、比較するには情報が足りなかった。あるいは感情が足りなかった。ただその夜は全部がよかった、と思った。全部。
ホテルに戻って、推し活アカウントを開いた。
投稿する写真を選んだ。劇場の外観。夕暮れの空を背景にした、アルマ・シアターの入り口。看板にエリオット・ヘインズの名前が光っていて、その下に『THE WATCHMAN』の文字がある。一枚だけ。
文面は短くした。
「来てよかった。なんかすごかった……。チケット戦争大変だったけど来てよかった」
それだけ。VIPの写真は載せない。エリオットとのツーショットは自分だけのものにしておきたかったし、自分の写真をわざわざネットに上げる必要性を感じない。
ステージドアのことは書かなかった。書かなかったことに意図はない。自分が楽屋口に立っていたことを公開する理由もなかった。映り込みが多い場所の写真は上げない。推し活アカウントの運用方針として、最初から決めていたことだった。
投稿は日記のようなもので、投稿して、ようやく一息つけた気がした。風呂に入って、髪を乾かして、明日の帰国便の時間を確認する。朝十時半発のヒースロー。最終パッキングは朝やればいい。ベッドに入ってスマホを見たら、いいねが四十くらいついていた。フォロワー四百人のアカウントにしてはかなり多い。リプライに「いいなー!」「レポ楽しみにしてます」「どんな感じでしたか?」とついていた。
レポは書かない。書けるようなことを何も覚えていない。覚えていることはどれも、言語化すると嘘になるものばかりだった。エリオットの額に髪が張り付いていたこととか、サインのペンの持ち方が変わったこととか、ジャケットの布地の感触とか。そういうことを書いたら、文字列になった瞬間に別のものになる。
「ありがとうございます! レポというほどのことは書けないんですが、とにかく行ってよかったです」と返して、スマホを伏せた。
翌朝、ヒースロー空港のラウンジで、奈央にチャットした。
「ソフィ紹介してくれてありがとう。すごく助かったし、楽しかった」
「よかったー。ソフィも楽しかったって言ってたよ」
既読がついてから返信が来るまでの間隔が、奈央にしては長かった。朝だから寝ぼけているのかもしれない。
「またロンドン来たい」
「いつでもおいで」
搭乗ゲートに向かいながら、もう一度推し活アカウントを開いた。いいねが六十に増えていた。リプライも増えていた。いつもより反応が多いのは、やっぱりロンドン現地からの投稿というのは珍しいからだろう、と思った。機内モードにする前に、タイムラインをざっと見た。普段と変わらない風景だった。エリオット関連のツイートがいくつかあって、昨夜の公演の感想がぽつぽつ流れていた。彩乃のタイムラインは平和だった。
機内モードに切り替えて、シートベルトを締める。窓の外にヒースローの滑走路が広がっていた。飛行機が動き始めて、加速して、浮いた。ロンドンが遠ざかっていく。
十二時間後に羽田に着く。多摩のワンルームに帰る。明後日からまた仕事だ。
羽田に着陸したのは日本の朝七時だった。
ランプが消えるのを待って、機内モードを解除した。途端にスマホが鳴った。鳴った、という表現では足りない。振動が途切れなかった。マナーモードにしていなかったら通知音がぴろぴろぴろぴろ鳴って顰蹙ものだったろう。ロック画面を解除しても通知は鳴り止まない。アプリのバッヂを見るとチャットがが七件。推し活アカウントの通知が。三桁になっていた。
なにこれ。
周りの乗客が立ち上がって荷物を取り出し始めた。彩乃はシートベルトのバックルに手をかけたまま、画面を見ていた。百件を超える通知。フォロワー四百人のアカウントに。
まずリプライを開いた。知らない名前が並んでいた。フォロワーではない人たちからのリプライが大量に来ていた。引用リツイートも。引用の文面を読んだ。
「これ見て。VIPに金払った人の感想がこれですよ」
「VIPで八万払って『すごかった』って、そりゃすごかっただろうけど」
さらに別のアカウントが、リンクつきで「こっち見て」と書いていた。
こっちってどっち。彩乃は自分の投稿が引用されている先を辿った。辿ると、別の投稿に行き着く。見知らぬアカウントが上げた動画。
サムネはアルマ・シアターの楽屋口。彩乃が昨夜立っていた場所だった。再生ボタンを押す。カメラは柵越しに撮影されていて、角度が彩乃の立ち位置とは反対側だった。エリオット・ヘインズが映っている。ファンと話している。サインをしている。そしてハグをしている。ファンが泣いている。エリオットが笑っている。
四十秒ほどの動画だった。再生回数が十万を超えていた。
動画を上げたアカウントは英語圏の人で、キャプションには「Stage door after tonight’s show. Elliott is just the best.」と書いてあった。ハッシュタグがいくつかついていた。何の悪意もない投稿だった。ファンが自分の体験を共有しているだけだった。
でもその動画が、日本のタイムラインに飛び火していた。
引用の連鎖を辿っていくと、構図が見えてきた。VIPミート&グリートに参加した日本人ファンの誰かが、彩乃ではなく別の人が、ステージドアの動画を見てこう書いていた。
「VIPに八万以上払ってハグもなかったのに、ステージドアでは無料でハグ? 意味がわからない」
その投稿に、賛同と反論が同時についていた。
「それはプロダクション側の問題でしょ」「俳優が好意で会ってるのに文句言うの?」「好意なのは分かるけどそれがVIPの価値を毀損してるんだよ」「出待ちって日本では品がないって言われるけど」「ここは日本じゃないでしょ」「海外ではステージドアは当然の文化」「当然かどうかじゃなくて対価の問題」「俳優を消耗させてるのはファンのほうでは」
ひとつの意見が次の意見を呼び、意見は反論を呼び、反論は別の論点にスライドしていく。VIPの料金設定の妥当性。プロダクションの責任。ステージドア文化の是非。海外と日本のファンカルチャーの違い。出待ちの是非。俳優の労働環境。推し活に金をかけることの意味。
火が広がる速度は、彩乃が飛行機に乗っている十二時間のあいだに十分すぎるほど速かった。
彩乃の投稿は、その炎上の中で《VIPに金を払った側の声》として引用されていた。彩乃の「なんかすごかった」という感想が、「金を払ってこの程度の感想しか出ないVIP」の証拠として使われていた。あるいは逆に、「VIPで満足した人もいるのに外野が騒ぎすぎ」の根拠として使われていた。どちらにしても、彩乃の言葉は彩乃の意図とは無関係な文脈に嵌め込まれていた。
ステージドアの動画をもう一度再生した。エリオットがファンとハグしている場面で一時停止した。柵。ファン。エリオットの手。背景にぼんやりと映っている人影の中に、自分がいるかもしれなかった。画質が粗くて判別できないけれど、あの場所に自分は立っていた。あの動画の時間軸の中に自分はいた。
自分もハグをされた。
VIPにはなかったハグを、ステージドアで受けた。VIPの代金を払い、VIPの体験をし、そのうえでステージドアでも会い、ハグまでされた。ソフィに連れていかれたから。奈央がソフィを紹介してくれたから。どの行動もひとつずつ取り出せば何も悪くない。チケットを買った。友だちに紹介を頼んだ。誘われた場所についていった。それだけだった。
でもそのそれだけが、全部重なると、彩乃は今タイムラインで怒っている人たちの誰よりも多くを手にしていた。VIPで写真とサインをもらい、ステージドアでハグをされた。
得をしている、という自覚はなかった。自覚がないこと自体が、得をしている証拠のようだった。
彩乃は推し活アカウントの通知設定を開き、すべてオフにしてアプリを閉じた。
手荷物を取って、通路に出て、ボーディングブリッジを歩く。入国審査キオスクの緑のランプに呼ばれ、パスポートを裏向けに置く。カメラを見て、ゲートがひらく。ターンテーブルから荷物を受け取り、税関を通って到着ロビーに出た。
ひとつずつ、順番に、帰国の手続きを片づけていった。機械的にやっていた。考えないように、ではなくて、考えるための余白を自分に与えないように、身体を動かし続けた。
多摩のワンルームに帰り着いたのは昼前だった。
スーツケースを開けもせずにエアコンをつけてソファに座った。何日か不在にしていただけなのに、六月の東京はロンドンと違って湿度が高くて、部屋の空気がまとわりつく。
習慣でスマホを手に取った。推し活アカウントの通知は切ったまま。開けば何百件もの通知が積み重なっているのだろうが、もう見たくはなかった。自分に向けられた怒りはそこにはない。彩乃の投稿に怒っている人はいなくて、彩乃の投稿を使って別の怒りを表明している人がいるだけだった。それは彩乃への攻撃ではないが、彩乃の言葉が彩乃の手を離れたということでもあった。
日常垢のタイムラインには、炎上の気配がうっすらと漂っていた。リアルの友だちの中にも舞台ファンが何人かいて、「なんかVIPの件で燃えてるね」「あの動画見た?」という投稿がちらほら流れていた。彩乃のことに言及している人はいなかった。当然だった。日常垢と推し活アカウントはつながっていない。
二日が過ぎた。三日目に、エリオット・ヘインズが自身のInstagramにストーリーズを投稿した。
「I love meeting fans after the show. It’s one of the best parts of doing theatre. Thank you all for being so lovely.」
ファンに会えるのは嬉しい。劇場でいちばん好きな瞬間のひとつだ。みんなありがとう。
善意の投稿だった。ステージドアを肯定する意図が明確に読み取れる投稿だった。エリオットは自分がファンに会うことの価値を低く見積もっていた。当然のことだと思っている。それは嘘ではないだろう。でもその善意が、タイムライン上では火に油を注いだ。
「じゃあVIPの意味は何?」
「好意で無料でやることを、VIPでは金取ってるわけでしょ」
矛先はすぐにばらけた。
「俳優が悪いんじゃなくてプロダクションが悪い」
「俳優がステージドアをやめれば解決する話」
やめろと言うのか。俳優の自由だろう。自由の結果がこの不公平だろう。声が声を呼んで、論点がスライドしていく。誰もが正しいことを言っている。正しいことの集積が全体として何も解決しない構造を、タイムラインが忠実に再現していた。
彩乃はそれらの意見を日常垢のタイムラインで、他人事のように読んでいた。
VIPに怒っている人たちの気持ちもわかったし、ステージドアを擁護する人たちの気持ちもわかった。
でも彩乃はその両方の場所にいた人間だった。VIPのエリオットは疲れた顔でも丁寧だった。ステージドアのエリオットは汗ばんだ額のまま一人ひとりに向き合っていた。どちらも本物のエリオットだった。
全部わかってしまうから、どちらに同調しても嘘になる。中立を装うこともできない。中立は、どっちの気持ちもわからない人がとるポジションだ。
できることは、黙っていることだった。黙っていられること自体が、特権だった。ステージドアでハグされた事実を知っている人間は、彩乃のほかにはソフィしかいない。黙っていれば、彩乃は「VIPに行った日本のファン」のまま。あの動画の中に映っているかもしれない影は、誰にも特定されない。
それがどれほどの特権であるかを、彩乃はたぶんわかっていなかった。引けない人がいる。VIPの八万四千円に生活を賭けた人がいる。ステージドアの動画を見て心が折れた人がいる。
彩乃はまだ楽しい場所にいられる。失ったものがないから、怒る必要もない。怒る必要がないし、傷つかない。傷つかないことは優しさではない。ただの非対称だ。
炎上は五日ほどで収束した。
収束、というのは解決とは違う。誰かが何かを認めたわけでも、プロダクションが声明を出したわけでもなかった。ただ全員が疲弊して、話題が次に移っただけだった。「みんな不幸でしたね」とまとめるツイートが流れてきて、それに数千のいいねがついて、それが弔辞のように炎上を見送った。
誰も得をしなかった。VIPに怒った人たちは怒りを吐き出しただけで、対価は戻らなかった。当然だ。ステージドアを擁護した人たちは正論を言っただけで、何も変わらなかった。エリオットの善意は構造的な不公平に変換されて、本人はたぶん何が起きたかも正確には把握していない。プロダクションは沈黙していた。
全員が不幸だった。彩乃を除いて。
彩乃は全部持っている側にいた。何も失わなかった。炎上の期間中、推し活アカウントの通知を切っていただけだった。通知を切れば嵐は来ない。アプリのアイコンをタップしなければ、炎上は存在しない。
彩乃の目には、自分はただ巻き込まれそうになっただけの人で、巻き込まれなくてよかった、という安堵があるだけだった。
炎上から一週間が経った日の夜。
日常垢のタイムラインにはもうエリオットの話題は残っていなかった。梅雨入りのニュースと、友だちのランチの写真と、新しいカフェの内装と、電車の遅延の愚痴。いつもの東京の日常が戻っていた。
「なんかロンドンのファンの件で炎上してたみたいだけど、はやくおちついてほしいなあ。みんな推し活楽しくやりたいだけなのにね」
彩乃の投稿にはいいねが三つついた。リプライはなし。フォロワー百八十人の日常垢では、これが普通の反応だった。
彩乃はスマホをナイトテーブルに置いて、電気を消した。
完全に外野の顔をしていた。「みたいだけど」「みんな推し活楽しくやりたいだけなのにね」と、共感の体裁をとった感想文。彩乃はいま、この炎上の当事者でもなければ観察者でもない、ただの通行人として振る舞っている。
あっちのアカウントを開けば、まだ通知は溜まっているだろう。引用リツイートの文面はまだ残っているだろう。彩乃の言葉を使って怒った人たちの怒りは、インターネットのどこかに保存されている。でも彩乃は通知を切って、アカウントを切り替えて、「はやくおちついてほしいなあ」と書いた。
多摩のワンルームの天井を、エアコンの風が撫でていた。