情報に必要なのはスピードと質だ。
春紀は試飲カップを机に置き、スマホのカメラを起動した。角度を三回変えてシャッターを切り、指先でセピアのフィルターをかけ、スタンプをひとつ落とす。背景に店舗の内装が映り込まないように構図を詰めた。最近のネットユーザーは壁のタイルひとつで場所を割り出してくる。この近辺で前日に新作の試飲を配るのはここだけだ。知られるわけにはいかない。情報戦は、その名の通り戦いなのだ。
文面を打つ。
キーワードの密度を保ちつつ、コメントやいいねが付きやすい温度にととのえる。かわいくて、ちょっと抜けてて、でも有益。この匙加減はもう身体に染みついている。マンネリだけが敵だ。
送信、と。
表向きに置いたスマホに通知が並んでいく。早い情報には早い反応がつく。そのかわり鮮度が落ちた瞬間にゴミになる。だから速度を見せつけつつも、定期的に質の高いものを積む必要がある。積み続ける必要がある。
試飲カップに口をつけた。やっぱり生クリームはいらないな。ソースを楽しむにはあった方がいいんだけど、どう考えてもこの分のカロリーが割に合わない。こういうことは書かない。
フォロワーが見ている春紀は、甘いものが好きで、写真がちょっと下手で、一生懸命で、褒めると喜ぶかわいいやつだ。
実際、褒められて伸びるタイプではある。嘘は言っていない。ただ、伸びる方向がフォロワーの想像とは少しずれているだけだ。
「だれか養ってくれないかなー」
一昨日、春紀がそうこぼしたのは本心だった。バイトを掛け持ちしながらSNSの数字を追いかけて、たまに褒められて、気が向いたら写真でも撮って。それで暮らしが回るような場所に収まりたい。今の生活のちょうど対岸にある暮らし。
テーブルの向かいで、慧がアイスラテのストローから口を離した。
「僕が養おうか?」
氷がかちりと鳴った。春紀のグラスじゃない。慧の方だ。ストローから口を離して、何でもないことみたいにこっちを見ている。
冗談だろう、と思った。思おうとした。でも慧の目が笑っていなかった。正確に言えば、口元は笑っているのに目だけが真剣で、そのちぐはぐさに春紀の方が先にたじろいだ。
「いや、」
「だめなの?」
「いや、ダメというか、養われるなら美人のお姉さんに養われたいというか」
慧は同級生の中では出世頭だ。いいところの商社に勤めて、顔もいい。女の子が放っておかないタイプのはずで、それがなぜ春紀に向いているのかは正直よくわからない。本人はスーツの襟を少し緩めたまま、春紀の顔をじっと見た。
「それって確定条件なのはどっち?」
「は?」
「美人? お姉さん?」
商社の人間だな、と思った。言葉の隙間を見つけるのが早い。春紀が笑ってごまかそうとするより先に、慧は静かに畳みかけた。
「お姉さんじゃないとダメなの?」
美人、の方は外さなかった。つまり自分が美人であることは前提にしている。その自信に腹は立たなかったのは事実だからだ。
春紀は黙った。黙ったことが、たぶん、答えになってしまった。
「うん、って言ってくれたら、お姫様みたいに扱ってあげるよ」
お姫様。
ヒモになりたいと思っている人間の急所を、慧は狙っているのかいないのかわからない顔で突いてくる。昔からそういうところがあった。
「俺、褒められて伸びるタイプだから」
牽制のつもりだった。軽く茶化して、話の温度を下げたかった。
「知ってる」
なんでもないように言った。
「だからもっと、もっと僕のためだけにかわいくなって」
春紀は何も返せなかった。笑い飛ばせなかったのは、たぶん、声のトーンのせいだ。冗談でも口説き文句でもない声だった。知ってる、のあとの間が短すぎて、つまりそれは用意していた台詞じゃなくて、本当にそう思っているだけの声だった。
カメラを買った。
SNSの投稿を、そろそろスマホから卒業させたかった。
買ってみてわかったのは、出てくる絵の質がスマホとはまるで違うということと、自分の腕がまるで追いついていないということだった。機材は手に入れた。腕がすぐ伸びるとは思えない。ならば一番手っ取り早いのはタイミングと努力だ。努力。努力。
富士山の夕焼けを撮りに行った。買い物帰りに寄れるような場所じゃない。電車を乗り継いで、粘りに粘って、たかが夕焼けでここまで疲弊するとは思わなかった。帰宅してからアプリで彩度を限界まで上げた。地味で曖昧だった空と海が燃えるように染まった。
カメラを構える自分の写真を先にあげる。すごく撮れる人に見える構図。ずっと憧れていたやつだ。
間を空けずに夕焼けを投稿する。
送信。
「そんなことないよ」待ち。
通知が来る。来る。予測どおりに来る。そうでないと困る。だってね、すっごい疲れたんだよ電車乗り継いで、時間もお金もかけて。誰かほめてくれなかったらやってられない。
疲れたのは本当だ。褒めてほしいのも本当だ。ただ、その「ほんと」を差し出す相手と角度を選んでいるだけだ。
通知が上へ流ていくのを眺めながら、女の子はよく見ている、と春紀は思う。
ステータスやアビリティを正確に値踏みしている。だからバイト暮らしのインフルエンサー未満のところに、養ってくれる美人のお姉さんなんか来ない。わかっている。フォロワーが増えたところで春紀のバイトの時給は変わらないし、燃えるような夕焼けの写真の裏側には、アプリの彩度スライダーがある。
砂で城を積んでいる、と思うことがある。
フィルターをかけて、スタンプを貼って、言葉を選んで、角度を決めて、ひとつずつ砂粒を重ねている。かたちは綺麗だ。それなりに人の目を引く。でも波が来たら終わる。砂は砂だ。
お披露目はまだ先にしておいたカメラの写真を、ギャラリーの奥からもう一度引っ張り出した。彩度を上げる前の夕焼け。ぼんやりとして地味で、空と海の境目がよくわからない一枚。加工した方が百倍きれいだ。でもあの場所に立って、重いカメラを構えて、光が変わるのをずっと待っていたのは春紀だ。
砂じゃないものが、あの中にはあった気がする。
スマホが鳴った。
「夕焼けの写真見た。加工しすぎ」
慧からのメッセージだった。わかってるよ。
春紀はその一行をしばらく見つめて、既読だけをつけて、画面を伏せた。
伏せたそばから、もう一通。
「そろそろ養われる気になった?」
笑っているのか本気なのか、文面だけではわからない。でも慧の場合、どちらでも着地点は同じだ。
うん、と打ってしまおうか。
めんどくさい。何がめんどくさいのか自分でもよくわからないが、とにかくめんどくさい。うんと言えば楽になる。たぶん本当に養ってくれる。お姫様みたいに扱ってくれる。慧はそういうことを言って、そういうことをする人間だ。言葉と行動の間に隙間がない。それがわかっているから、めんどくさい。
指が画面の上で止まっている。
あるのかないのかもわからないプライドが、まだ残っている。SNSのフォロワーに向けて丁寧に砂を積んでいる人間が、何に対するプライドなのかは自分でも説明できない。でも確かにそれはあって、うん、の二文字を打たせない程度には硬い。
鬱陶しいくらいに誠実なのだ、慧は。加工しすぎ、と言ってくるのも、養おうか、と繰り返すのも。フィルター越しの春紀じゃなくて、彩度を上げる前の、ぼんやりした方の春紀をずっと見ている。
その目に向き合う覚悟が、春紀にはまだない。
既読のまま、スマホをポケットにしまった。
通知がまた光る。フォロワーからの、優しくて、正しくて、春紀の聞きたい言葉だけで編まれたコメントが並んでいる。全部、ぜんぶ、春紀がそう設計したとおりの反応だ。
慧だけがその外にいる。困ったことに、それが少しだけ、ほんの少しだけ心地いいことに、春紀は気づかないふりをしている。
明日の投稿のネタを考えなきゃ、と思いながら、ぬるくなった試飲カップの底を見る。
白鳥が砂の城に溺れる夢を、まだ見ていたかった。