2026.07.03

白鳥は砂の城に溺れる

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3,661文字 約6分

情報に必要なのはスピードと質だ。

春紀は試飲カップを机に置き、スマホのカメラを起動した。角度を三回変えてシャッターを切り、指先でセピアのフィルターをかけ、スタンプをひとつ落とす。背景に店舗の内装が映り込まないように構図を詰めた。最近のネットユーザーは壁のタイルひとつで場所を割り出してくる。この近辺で前日に新作の試飲を配るのはここだけだ。知られるわけにはいかない。情報戦は、その名の通り戦いなのだ。

文面を打つ。

明日からのスタバの新作、試飲もらっちゃった!甘さ控えめで、豆乳使ってるからカロリーも抑えめ!キャラメルソースカスタムもおすすめだって

キーワードの密度を保ちつつ、コメントやいいねが付きやすい温度にととのえる。かわいくて、ちょっと抜けてて、でも有益。この匙加減はもう身体に染みついている。マンネリだけが敵だ。

送信、と。

表向きに置いたスマホに通知が並んでいく。早い情報には早い反応がつく。そのかわり鮮度が落ちた瞬間にゴミになる。だから速度を見せつけつつも、定期的に質の高いものを積む必要がある。積み続ける必要がある。

試飲カップに口をつけた。やっぱり生クリームはいらないな。ソースを楽しむにはあった方がいいんだけど、どう考えてもこの分のカロリーが割に合わない。こういうことは書かない。

フォロワーが見ている春紀は、甘いものが好きで、写真がちょっと下手で、一生懸命で、褒めると喜ぶかわいいやつだ。

実際、褒められて伸びるタイプではある。嘘は言っていない。ただ、伸びる方向がフォロワーの想像とは少しずれているだけだ。

「だれか養ってくれないかなー」

一昨日、春紀がそうこぼしたのは本心だった。バイトを掛け持ちしながらSNSの数字を追いかけて、たまに褒められて、気が向いたら写真でも撮って。それで暮らしが回るような場所に収まりたい。今の生活のちょうど対岸にある暮らし。

テーブルの向かいで、慧がアイスラテのストローから口を離した。

「僕が養おうか?」

氷がかちりと鳴った。春紀のグラスじゃない。慧の方だ。ストローから口を離して、何でもないことみたいにこっちを見ている。

冗談だろう、と思った。思おうとした。でも慧の目が笑っていなかった。正確に言えば、口元は笑っているのに目だけが真剣で、そのちぐはぐさに春紀の方が先にたじろいだ。

「いや、」

「だめなの?」

「いや、ダメというか、養われるなら美人のお姉さんに養われたいというか」

慧は同級生の中では出世頭だ。いいところの商社に勤めて、顔もいい。女の子が放っておかないタイプのはずで、それがなぜ春紀に向いているのかは正直よくわからない。本人はスーツの襟を少し緩めたまま、春紀の顔をじっと見た。

「それって確定条件なのはどっち?」

「は?」

「美人? お姉さん?」

商社の人間だな、と思った。言葉の隙間を見つけるのが早い。春紀が笑ってごまかそうとするより先に、慧は静かに畳みかけた。

「お姉さんじゃないとダメなの?」

美人、の方は外さなかった。つまり自分が美人であることは前提にしている。その自信に腹は立たなかったのは事実だからだ。

春紀は黙った。黙ったことが、たぶん、答えになってしまった。

「うん、って言ってくれたら、お姫様みたいに扱ってあげるよ」

お姫様。

ヒモになりたいと思っている人間の急所を、慧は狙っているのかいないのかわからない顔で突いてくる。昔からそういうところがあった。

「俺、褒められて伸びるタイプだから」

牽制のつもりだった。軽く茶化して、話の温度を下げたかった。

「知ってる」

なんでもないように言った。

「だからもっと、もっと僕のためだけにかわいくなって」

春紀は何も返せなかった。笑い飛ばせなかったのは、たぶん、声のトーンのせいだ。冗談でも口説き文句でもない声だった。知ってる、のあとの間が短すぎて、つまりそれは用意していた台詞じゃなくて、本当にそう思っているだけの声だった。

カメラを買った。

SNSの投稿を、そろそろスマホから卒業させたかった。

買ってみてわかったのは、出てくる絵の質がスマホとはまるで違うということと、自分の腕がまるで追いついていないということだった。機材は手に入れた。腕がすぐ伸びるとは思えない。ならば一番手っ取り早いのはタイミングと努力だ。努力。努力。

富士山の夕焼けを撮りに行った。買い物帰りに寄れるような場所じゃない。電車を乗り継いで、粘りに粘って、たかが夕焼けでここまで疲弊するとは思わなかった。帰宅してからアプリで彩度を限界まで上げた。地味で曖昧だった空と海が燃えるように染まった。

カメラを構える自分の写真を先にあげる。すごく撮れる人に見える構図。ずっと憧れていたやつだ。

間を空けずに夕焼けを投稿する。

初めて撮った夕焼けすっごくきれいだった。でも腕がぜんぜん追いついてないや。カメラの勉強がんばるぞー!

送信。

「そんなことないよ」待ち。

通知が来る。来る。予測どおりに来る。そうでないと困る。だってね、すっごい疲れたんだよ電車乗り継いで、時間もお金もかけて。誰かほめてくれなかったらやってられない。

疲れたのは本当だ。褒めてほしいのも本当だ。ただ、その「ほんと」を差し出す相手と角度を選んでいるだけだ。

通知が上へ流ていくのを眺めながら、女の子はよく見ている、と春紀は思う。

ステータスやアビリティを正確に値踏みしている。だからバイト暮らしのインフルエンサー未満のところに、養ってくれる美人のお姉さんなんか来ない。わかっている。フォロワーが増えたところで春紀のバイトの時給は変わらないし、燃えるような夕焼けの写真の裏側には、アプリの彩度スライダーがある。

砂で城を積んでいる、と思うことがある。

フィルターをかけて、スタンプを貼って、言葉を選んで、角度を決めて、ひとつずつ砂粒を重ねている。かたちは綺麗だ。それなりに人の目を引く。でも波が来たら終わる。砂は砂だ。

お披露目はまだ先にしておいたカメラの写真を、ギャラリーの奥からもう一度引っ張り出した。彩度を上げる前の夕焼け。ぼんやりとして地味で、空と海の境目がよくわからない一枚。加工した方が百倍きれいだ。でもあの場所に立って、重いカメラを構えて、光が変わるのをずっと待っていたのは春紀だ。

砂じゃないものが、あの中にはあった気がする。

スマホが鳴った。

「夕焼けの写真見た。加工しすぎ」

慧からのメッセージだった。わかってるよ。

春紀はその一行をしばらく見つめて、既読だけをつけて、画面を伏せた。

伏せたそばから、もう一通。

「そろそろ養われる気になった?」

笑っているのか本気なのか、文面だけではわからない。でも慧の場合、どちらでも着地点は同じだ。

うん、と打ってしまおうか。

めんどくさい。何がめんどくさいのか自分でもよくわからないが、とにかくめんどくさい。うんと言えば楽になる。たぶん本当に養ってくれる。お姫様みたいに扱ってくれる。慧はそういうことを言って、そういうことをする人間だ。言葉と行動の間に隙間がない。それがわかっているから、めんどくさい。

指が画面の上で止まっている。

あるのかないのかもわからないプライドが、まだ残っている。SNSのフォロワーに向けて丁寧に砂を積んでいる人間が、何に対するプライドなのかは自分でも説明できない。でも確かにそれはあって、うん、の二文字を打たせない程度には硬い。

鬱陶しいくらいに誠実なのだ、慧は。加工しすぎ、と言ってくるのも、養おうか、と繰り返すのも。フィルター越しの春紀じゃなくて、彩度を上げる前の、ぼんやりした方の春紀をずっと見ている。

その目に向き合う覚悟が、春紀にはまだない。

既読のまま、スマホをポケットにしまった。

通知がまた光る。フォロワーからの、優しくて、正しくて、春紀の聞きたい言葉だけで編まれたコメントが並んでいる。全部、ぜんぶ、春紀がそう設計したとおりの反応だ。

慧だけがその外にいる。困ったことに、それが少しだけ、ほんの少しだけ心地いいことに、春紀は気づかないふりをしている。

明日の投稿のネタを考えなきゃ、と思いながら、ぬるくなった試飲カップの底を見る。

白鳥が砂の城に溺れる夢を、まだ見ていたかった。

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