紙
「痛ッ」
封筒の角で人差し指を切った。血が出ている。浅いけど、しみる。冬場は乾燥してっからな、こういうのがいちいち深く入る。ティッシュ巻いとけば止まるだろ、と思って巻いた。巻き方が雑で、ティッシュの繊維が傷口に貼りついた。余計なことをした。
どうしたんですか、と笠原が振り向いた。紙で手切っただけだ、と指を上げると、眉をひそめられた。切っただけ、の「だけ」が気に入らなかったらしい。別にいいだろ、だけはだけだ。
絆創膏を差し出された。笠原の引き出しからではなく、ポケットからだった。ポケットに絆創膏が入っている人間を俺は笠原以外に知らない。
いつも持ってんのか、と訊いたら、当然ですと頷かれた。当然なのか。当然なんだろうな、この人にとっては。
「備えよ、常に」
笠原がそう言ったとき、一瞬なにかの標語かと思った。防災ポスターとかに書いてありそうな。ボーイスカウトの座右の銘です、と笠原は付け足した。
ボーイスカウト出身とは知らなかった。笠原の顔をまじまじと見た。たしかにそういう少年だった面影がある。膝の擦り傷に平気な顔をしていたタイプの。でも自分の膝じゃなくて、隣の子の膝に絆創膏を貼ってやるタイプの。たぶん。知らんけど。
で、俺は絆創膏を受け取ったんだが、巻くのが下手で、粘着面が指同士でくっついた。笠原が呆れた顔をしてそれを剥がし、巻き直してくれた。手際がいい。何度も人に巻いてきた手つきだった。俺はその間ぼうっと自分の指を見ていた。
怪我
俺はよく怪我をする。
紙で指を切る。棚の角に額をぶつける。階段を踏み外して脛を打つ。缶のプルタブで親指を裂く。包丁で爪を削ぐ。かさぶたを剥がす。かさぶたを剥がしたところにまた何かぶつける。書き出すとけっこうな量だな。
注意力が散漫なのとはちょっと違うと思っている。たぶん、自分の体の大きさを把握しきれていない。ここまでが俺で、ここから先が棚だ、みたいな境界がぼやけている。だから指が紙に近づきすぎるし、額が棚に近づきすぎる。近づきすぎてから気づく。遅い。いつも遅い。
笠原はそのたびにやってくる。何も言わずに消毒液を出して、何も言わずにガーゼを切って、何も言わずに貼る。処置が全部終わってから、痛いですか、と訊く。順番がおかしい。先に訊けよ。いや、訊かれても痛くないって言うだけだから、笠原のやり方のほうが合理的ではある。合理的ではあるんだが、なんだろう、手当てされながら何も訊かれないのは妙に落ち着かない。
「嫌いなんだよね、舌打ち」
消毒が沁みて舌打ちしたら言われた。舌打ちしてた自覚がなかった。
音がじゃなくて、痛いのを我慢してる感じが嫌なんです、と笠原は続けた。我慢しないでくれ、とは言っていない。痛いなら痛いと言え、とも言っていない。舌打ちで痛みを処理するのが嫌だ、と言っている。じゃあどうすればいいんだ、と訊いたら、痛いときは痛い顔してください、と少し考えてから言った。
失当だな。痛い顔をしたところで痛みは引かない。
でも次に消毒が沁みたとき、舌打ちの代わりに顔をしかめてみた。笠原はそれを見て、満足そうに頷いた。何に満足したのかは俺にはわからないし、たぶんわからないままでいい。
頭
「頭割られると、傷の深さより激しく血が出んだよ」
棚から落ちてきたファイルの角で頭を切った。たいした傷じゃなかったんだが、血がだらだら流れて笠原の顔から色が引いた。こっちはそんなに慌ててないのに笠原のほうが蒼い。頭皮は毛細血管が多いから派手に見えるだけで、実際は浅いんだよ、と説明した。笠原は聞いていたが納得はしていなかった。説明と納得は別なんだろう。
タオルを頭に押し当てられたまま、笠原の胸のあたりを見ていた。シャツの第二ボタンの糸が緩んでいる。こういう細かいことには気づくのに自分の体のことには気づかない。俺の話だ。笠原のことじゃなくて。
息が近かった。タオルを当てる角度を変えようとして笠原が屈み込んでいる。洗剤の匂いがした。柔軟剤ではなく洗剤の、あの、粉っぽい清潔な匂い。この距離で人の匂いを嗅ぐのは久しぶりで、なんか、ぼうっとした。頭を切ったせいかもしれないし、違うかもしれない。
大丈夫ですから、と笠原が言った。俺が大丈夫だと言うべきところを笠原が言っている。何がだ。何が大丈夫なんだ。俺は大丈夫だよ。頭皮は浅い。血は止まる。止まるのはわかってるんだが、笠原の手のひらが頭に当たっているのが、やけにあたたかくて、それだけがちょっと困った。
金
何かの弾みで、笠原に飯を奢ることになった。経緯はよく覚えていない。怪我の手当てが続いて、さすがに悪いなと思って、金払ってやってもいい、と言ったら笠原は首を振った。金は嫌らしい。じゃあ飯で、と言い直したら、少し間があって、頷いた。
定食屋の向かいの席で笠原は鯖の味噌煮をきれいに食べた。骨のよけ方がうまい。箸先で身を崩すとき、皮と骨を分ける一手が無駄なく速い。食べ方を見ているのがなんか、いい。いいとしか言いようがない。語彙の問題だ。
ごちそうさまでした、と笠原が手を合わせた。味噌煮のたれが皿に残っていなかった。全部さらっている。行儀が悪いとも言えるし、作った人間にとってはこの上ない褒め言葉とも言える。作ったのは定食屋の大将だが。俺が作ったわけじゃないが、なんか、うれしかった。なんでだよ。
帰り道、笠原が少し後ろを歩いていた。振り返ったら、ポケットに手を入れて、こちらを見ていなかった。街灯の下を通り過ぎるたびに影が伸びたり縮んだりしていた。
次は体で払ってもらうからな、と言ったら、笠原は一拍遅れて歩調を崩した。それから何も言わずに、半歩ぶん距離を詰めてきた。詰めてきただけ。それだけ。それだけなんだが。
息災
笠原は、おはようございますの代わりに「息災か?」と言う。
最初は冗談かと思った。時代劇みたいな挨拶だ。でも毎朝言う。出勤して顔を合わせると、荷物を置く前に、こちらの顔を見て、息災か、と。息災だよ、と返す。毎朝返す。嘘かもしれない。どこかしら切れているかもしれないし、打っているかもしれない。でもそう返す。
笠原は俺の顔をよく見てから、それからようやく自分の席に座る。何を見ているのかはわからない。新しい傷がないか確認しているのかもしれないし、寝不足の隈がないか見ているのかもしれないし、何も見ていないのかもしれない。ただ見ることが習慣になっているだけかもしれない。どっちにしろ、見られている。毎朝。
備えよ、常に。
笠原が俺のそばにいるのは、備えているつもりなのだろう。俺がまた怪我をする前にそこにいる。絆創膏を出せるように。消毒液を出せるように。タオルを押し当てられるように。そういう人だ。
俺は備えるのが下手だ。備えよと言いながら備えられない。現場で痛い目に遭いすぎて自分に言い聞かせているだけで、身体がぜんぜんついてこない。笠原のとは出典が違う。あっちはボーイスカウト、こっちは怪我の履歴。座右の銘が被っているのに中身がまるで違う。笠原は備えが身体に入っている。唱えなくても手が動く。俺は唱えても手が滑る。
俺のほうが年上で、体が大きくて、声がでかい。それでも紙で手を切るし、棚で頭を割るし、階段で脛を打つ。笠原は黙って絆創膏を出す。俺は黙って受け取る。ポンコツだな、と思う。こんなに備えてもらっているのに、返せるのが鯖の味噌煮の代金くらいしかない。味噌煮を作ったのも俺じゃない。
明日も、息災か、と訊かれる。明日も、息災だよ、と答える。
備えてくれている人間の名前は笠原という。俺はたぶん、その名前を怪我の数だけ呼んでいる。呼びすぎだ。でもまあ、呼ばれる側がまだ呼び返してくれているうちは、まだ大丈夫なんだと思う。