2026.06.23

ものさし

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2,192文字 約4分

お弁当の蓋を開けながら、典子は向かいに座った女性をなんとなく眺めていた。

総務から異動してきた水野さん。来てまだ三週間ほどで、昼休みに誰と食べるか定まっていないのか、今日も給湯室の隅のテーブルにひとりで座っている。典子は自分からそこに来た。新しい人をひとりにさせておくのはなんとなく居心地が悪かったし、なにより水野さんの雰囲気が嫌いではなかった。

落ち着いている。余計なことを言わない。でもとっつきにくいわけでもない。話しかければちゃんと返してくれるし、笑うときは目元がやわらかくなる。

「水野さんってさ」

典子は卵焼きを箸でつまみながら言った。

「若く見えるよね。全然、三十前半くらいに見える」

褒めたつもりだった。

実際、水野さんは肌がきれいだし、髪もつやがあるし、姿勢がいい。若い頃からちゃんと手入れしてるんだろうな、と思っていた。それを口にするのは自然なことだと思った。

水野さんは咀嚼していた口をゆっくり動かし、飲み込んでから、典子のほうを見た。

……それ、あんまり褒め言葉じゃないですよ」

怒っているふうではなかった。笑ってもいなかった。コンビニのお茶のラベルを読むような、ただそこに書いてある文字を声に出しただけの淡々とした調子だった。

「え?」

「若く見える、って。言われ慣れてるんですけど」

水野さんは少し間を置いた。

「悪気がないのもわかってます。褒めてるつもりなのも。だから、まあ、だからこそ言うんですけど」

典子は箸を止めた。

「若く見えるって、たぶん雰囲気のことだと思うんですよね。苦労してなさそう、すれてない、みたいな。……だから言われると、自分がやってきたことを低く見積もられた気がしちゃうのかもしれないです」

なにか返さなければと思ったが、うまく言葉にならなかった。とりあえず「そっか」と言って卵焼きを口に入れた。味がしなかった。

午後の仕事中、典子はずっとモヤモヤしていた。

褒めたのに。

そう思った。べつに意地悪で言ったわけじゃない。きれいだね、って意味で言った。それの何がいけないのか。

最近の子は難しいな。

素直に受け取ればいいのに。こっちの好意を好意として受け取れないのは、なんというか、もったいない生き方だと典子は思った。

思おうとした。

でも引っかかっている。水野さんの声の調子が頭から離れない。あれは怒りではなかった。失望でもなかった。もっとずっと静かなもので、たとえるなら、何度も同じ道を歩いた人が、ここ段差がありますよ、とただ教えてくれたような。

ふと、典子は社内ポータルの異動通知を開いた。水野さんのプロフィールが目に入る。

四十三歳。

動きが止まった。

最近の子、と思っていた。三十前半に見える、と自分が言ったから、なんとなくそういう人だと思い込んでいた。でも四十三歳。典子は五十二だから、九つしか違わない。

最近の子って、なんだ。

自分で勝手にものさしを当てて、自分で勝手に目盛りを読んで、その目盛りが正しいことを前提に話していた。水野さんが何者であるかは、最初から見ていなかった。

帰りの電車で、典子はつり革につかまりながら、ぼんやり窓の外を見ていた。

若い頃のことを思い出していた。二十代の終わりに「まだ学生さんかと思った」と言われて嬉しかった。三十代で「全然三十に見えない」と言われて嬉しい。四十を過ぎても五十を過ぎても、「見えない」と言われるたびに、ちょっとだけ得をしたような気持ちになった。

あれは、本当に嬉しかったのだろうか。

嬉しくなければいけないと思っていたのではないか。若いことが価値で、年を取ることは差し引きで、だからサバを読んでもらえるのは得だと、誰かに教わったわけでもないのに信じていた。

水野さんは怒らなかった。棘も出さなかった。あの人は自分を悪い人間だと思っていないから言ったのだ。その信頼に、典子は応えられただろうか。

ジェンダーという言葉がある。テレビや新聞で見かけるたびに、典子は正直なところ少し身構えていた。なにか難しくて、間違えたら怒られそうで、自分には縁の遠いことだと思っていた。でも案外簡単なことだったのかもしれない。

若く見えるね、と言わないこと。その人をその人の年齢のまま見ること。それだけのことが、ずっとできていなかった。そしてできていないことに、今日まで気づかなかった。

電車が駅に滑り込んで、典子はつり革から手を離した。

明日の昼休み、また水野さんの隣に座ろうと思った。今度は何を言おうか。「若く見える」じゃなくて、「若く見えない」でもなくて、もっと別のことを。

たとえば、お弁当のおかずの話でもいいかもしれない。何を作ってきたんですか。それおいしそうですね。

目の前にいる人を、まっすぐ見ること。たぶんそこからだ。

典子はホームの階段を一段ずつ上がりながら、小さく息をついた。五十二年分のものさしは、一日では変わらない。でも今日、目盛りがひとつずれたことは知っている。

それで十分だった。

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