四月の教室は少しだけ埃っぽい。春休みのあいだ誰もいなかった部屋を、朝の光がやわらかく照らしている。新しい教科書の紙の匂いがする。名簿順に並んだ机が、まだ誰のものでもない顔をしている。担任の宮下先生は、若くて、声が大きくて、目がよく合う先生だった。
「今年、このクラスは”いじめゼロ”を目指します」
黒板に貼られた模造紙に、大きな花の絵と一緒にそう書いてあった。花はたぶん先生が描いた。花びらの数は、クラスの人数と同じ三十二枚だった。
拍手、と先生が言ったので、拍手した。
五月から、月に一度アンケートがあった。
「いじめをしたことがありますか」「いじめを見たことがありますか」「いじめられたことがありますか」
三つの質問に、「はい」か「いいえ」で答える。名前は書かない。でも筆跡でわかるんじゃないか、と誰かが言って、みんな少しだけ丁寧な字で「いいえ」に丸をつけた。
宮下先生は結果を読み上げて笑った。「全員”いいえ”です。すばらしい」
ほんとうに、何もなかった。五月は。
矢島さんは声が小さくて、給食を食べるのが遅くて、体育のときにビブスを裏返しに着た。
六月のある昼休み、矢島さんの筆箱が廊下に落ちていた。中身が散らばっていて、矢島さんは一人でそれを拾っていた。大塚くんが横を通ったとき、消しゴムを踏んだ。わざとかどうかは、わからない。
矢島さんが泣いた。
宮下先生は大塚くんと矢島さんを呼んで、話を聞いて、大塚くんは「ごめんなさい」と言って、矢島さんは「いいよ」と言った。
先生は「解決しました」と連絡帳に書いた。
翌日から、大塚くんは矢島さんに話しかけなくなった。べつに避けているわけではない。ただ、目が合わなくなった。大塚くんだけじゃなかった。じわじわと、みんなが同じようになった。
矢島さんに何かをする人はいなくなった。
矢島さんに何かをする人が、いなくなった。
七月のアンケート。
「いじめをしたことがありますか」――いいえ。
これはほんとうだ。誰も何もしていない。
「いじめを見たことがありますか」――いいえ。
見るためには、そこに誰かがいないといけない。
「いじめられたことがありますか」――三十二人全員が「いいえ」に丸をつけた。
先生は「二か月連続ゼロです」と言って、花びらに金色のシールを貼った。
教室の窓際の席で、矢島さんも「いいえ」に丸をつけていた。ユキオは見ていた。見ていたけれど、アンケートには「いいえ」と書いた。
九月から、矢島さんの席は教室の端に寄った。班替えのとき、どの班にも入らなかった。先生は「じゃあ矢島さんはこっちの班ね」と言って、一番人数が少ない班に入れた。その班の子たちは特に何も言わなかった。何も言わないまま、矢島さんの分のプリントを取りに行かなかったし、矢島さんも自分で取りに行った。
運動会の練習で、矢島さんは二回休んだ。三回目はいたけれど、誰も「矢島さん来たね」とは言わなかった。
十月のアンケート。全員「いいえ」。
宮下先生は職員会議で褒められたらしい。「三十二人のクラスで半年間いじめゼロ、すばらしい取り組みですね」。先生は少し照れて、「子どもたちが自分で考えて行動してくれています」と答えたと、隣のクラスの友達が教えてくれた。
十一月のある朝。
出席をとるとき、先生が「矢島さん」と呼んだ。返事がなかった。先生は顔を上げて、教室を見回して、「お休みですね」と言って、次の名前を読んだ。
次の日も、矢島さんは来なかった。一週間経っても来なかった。
ユキオは、矢島さんの机を見ていた。机の上には何も置かれていない。引き出しの中も空だった。いつ持って帰ったのか、誰も知らない。
先生は何も言わなかった。クラスの誰も、矢島さんのことを話さなかった。話す理由がなかった。
十二月。
アンケートの紙が配られた。ユキオは鉛筆を持って、三つの質問を読んだ。
「いじめをしたことがありますか」
窓際の席は空いていた。そこにはもう机ごとない。いつ撤去されたのか、ユキオは思い出せなかった。「いいえ」に丸をつけた。
隣の子も丸をつけていた。前の子も。後ろの子も。三十一人全員が「いいえ」に丸をつけた。
宮下先生は「全員”いいえ”です」と読み上げて、笑った。――三十二枚の花びらに、金色のシールが九枚並んでいた。