大人になると頭を撫でられる機会は減る。
子供の頃は自然だった。よくできたね、と手が伸びてくる。偉かったね、と髪を乱される。祖母がそうだった。忙しい両親の代わりに、祖母が撫でた。皺の深い手のひらが後頭部を包むように触れて、ゆっくり下ろす。それだけのことが、まるごと安心だった。
いつからだろう、頭に手が届く距離に人を入れなくなったのは。
仕事が一段落したのは夜の十時を過ぎた頃だった。デスクに突っ伏して、十分だけ寝よう、と思った。突っ伏したまま、今日のやり取りを反芻していた。失注した案件の電話。先方の声は丁寧だったが、丁寧なぶん余計にこたえた。負けましたね、とは言われない。ご縁がなかった、と言われる。ご縁がなかったのはこちらのほうで、なかったのは縁ではなく何か別のものだ。
顔を上げると、隣の席がまだ明るかった。モニタの光だけで仕事をしている横顔が青白い。こちらが起きたのに気づいて、ちらりと見た。
大丈夫。
聞かれる前に言った。大丈夫は便利な言葉で、本当に大丈夫なときも大丈夫でないときも同じ音が出る。隣は何も返さなかった。返さずに、右手を伸ばして、後頭部に触れた。
手のひらがまるみをおびた頭蓋骨にぴたりと合って、髪の流れに沿ってゆっくり下ろされた。指先が耳の上を掠めて、首筋で離れた。
身体中を巡っていた力がなりをひそめた。意識と乖離しているような不思議な感覚があった。泣いてはいなかった。泣いてはいなかったが、泣く手前のどこかにいた。
隣はもうモニタに向き直っていた。何事もなかったように、キーボードを叩いている。
帰り際、ありがとう、と言おうとして、やめた。何に対してのありがとうかを説明する語彙を持っていなかった。あれが安心だったのか、許しだったのか、もっと手前にある名前のないものだったのか、まだわからない。わかったのは、ずっと保留にしていた何かの判定が、あの数秒で下りたということだけだった。
触れられて、大丈夫だと思えるかどうか。身体はそれをずっと待っていた。