三年間、同じ音だった。
放課後の音楽室はいつも少しだけ湿っていて、窓際のカーテンが吸い込んだ西日のにおいと、誰かが置き忘れたペットボトルのぬるい存在感と、それからこのアップライトの、少し鼻にかかったような中音域。全部まとめてわたしの放課後だった。好きとか嫌いとかではなく、ただそこにあるものとして鍵盤に触れる。毎日。飽きもせず。
だから気づいたとき、最初に浮かんだのは疑問じゃなくて確信だった。
ドを押す。響きが奥へ抜ける。今まで天井に貼りついて消えていた音が、床を通って足の裏まで届く。和音を重ねると倍音が立ち上がって、粒のひとつひとつが見える。空気の温度が変わっている。指が鍵盤に落ちる前に、もう音の輪郭がわかる。
……来た。
ずっと読んでいた本の文字が、急に意味を持ち始めるあの瞬間に似ていた。三年。三年分の放課後が、全部この数秒のために積み上がっていたのだと思うと鳥肌が止まらなくて、腕をさすった。左手がかすかに震えている。
ショパンのバラード一番。冒頭の七小節をゆっくり置く。いつもは力任せに押し込んでいた左手のユニゾンが、今日はちゃんと沈む。音が沈む。響きの底が見える。
蓋を閉じた。椅子を鳴らして立ち上がる。
志望校は地元の国立にするつもりだった。経済学部。ピアノは趣味で続ければいいと、去年の三者面談でそう言った。母も担任もうなずいている。でも今この音を聴いてしまったら、そんな整理のつけ方では収まらない。指が知っている。耳が覚えてしまった。ここから先の音の世界がどういう場所か、今のわたしには見えている。
廊下に出た。上履きが床を叩く音が反響する。音楽準備室まで十歩もない。早足が駆け足に変わっていることに自分で気づいて、でも止まらなかった。止まれなかった。
ドアを開ける。楽譜の束を抱えた中島先生が、こちらを見て少しだけ目を丸くした。
「先生、わたし」
息を吸う。
「わたし、ピアノ」
「あー! もしかして、もう弾いた?」
先生の声が、わたしの言葉を吹き飛ばした。
「調律終わってたでしょ、午前中に調律師さん入ってもらったの。だいぶ狂ってたみたいでさ」
楽譜を棚に押し込みながら、先生は自分の話に自分で満足していた。
「やっぱ音ぜんっぜん違うよね?」
違った。全然違った。そこだけは間違いなく、合っていた。