その朝、駅前の横断歩道で信号待ちをしていたとき、妙なものを見た。
朝の八時すぎ。通勤のピークにはやや遅いが、それでも横断歩道の前には会社員や学生がびっしり並んでいる。その隙間に自転車が五、六台まじっていた。みんなサドルに腰を据えたまま、片足を地面について信号を見上げている。彼女もそのうちの一人だった。前かごには折り畳んだエコバッグが三枚。スーパーの開店時刻にはまだ少し早い。
列の先頭のほうに、制服の警察官がいた。
自転車を降りていた。ハンドルを両手で握って、歩行者たちに混じって立っている。
あれ、と思った。
信号が青に変わった。人の群れが横断歩道に流れ込む。スーツの肩と学生の鞄とベビーカーが入り混じって、白線の上はちょっとした雑踏だった。その中を、警察官は自転車を押して歩いていた。
周囲の自転車はいっせいにペダルを踏んだ。当然のように、乗ったまま。歩行者の波を縫うようにして漕いでいく。彼女もその流れに乗った。ペダルに足をかけて、漕いで、人の間をすり抜けて渡った。押して歩いている警察官の脇を、自転車が次々と追い越していく。降りたのはあの警察官だけだった。
渡りきって少し走ってから、さっきの警察官のことを考えた。
乗ったままでよかったんだよな?
みんな乗ってたし。いつもそうだし。でもあのお巡りさんは降りてた。なんだろう、あれ。法律が変わったとかなんとか、テレビでやっていた気もする。細かいことは覚えていない。
まあ、みんな乗ってたし。
そう思ったのに、あの警察官の背中がなんとなく頭に残った。歩行者に囲まれた横断歩道の真ん中を、一人だけ押して歩いていた制服の背中。
まあいいか、と彼女は前を向いた。スーパーはもうすぐだ。
卵が安い日だった。
買い物を終えて帰る道は、行きとは少し違うルートを通る。
六月の陽射しが首筋を刺していた。前かごにスーパーの袋、後ろの荷台にもスーパーの袋。ハンドルにはもうひとつぶら下げていて、漕ぐたびに車体がふらつく。サンダルの踵がペダルからはみ出しているのは、いつものことだった。
住宅街の交差点にさしかかったとき、前方に人影が見えた。若い巡査が一人、道の脇に立っている。背後には「自転車 止まれ」と赤く印刷されたのぼり旗。足元の白線は色褪せてアスファルトに溶けかけていて、一時停止の標識は電柱の影に半分隠れている。こんなところに標識なんてあったっけ。
前を走っていたロードバイクに、巡査が声をかけた。
「すみません、止まってくださーい」
ロードバイクは止まらなかった。ヘルメットの奥の目が一瞬だけ巡査を見て、そのまま風のように通過していった。
「あの、止まって……」
その前にいたらしいクロスバイクも、もう行ってしまっていた。イヤホンを両耳に差した大学生ふうの青年。聞こえていたのかどうかもわからない。
電動アシストの通勤族が二台、続けて巡査の前を抜けていく。見もしなかった。
巡査の手が一度下がりかけて、また上がった。こっちを向いている。
「止まってください」
朝の横断歩道のことが、頭のどこかにあったのかもしれない。人混みの中を一人だけ押して歩いていた、あのお巡りさんの背中が。
ブレーキを握った。
「はい、なんでしょう」
「あの、こちら一時停止の標識がありまして、今、止まらずに通過されましたので……」
「止まりましたけど」
「いえ、標識の位置でです。ここに停止線がありまして」
巡査が指さした先を見た。白線、というよりアスファルトと同化したグレーの痕跡。しゃがむような姿勢で目を凝らして、それから巡査を見上げた。
「線、見えます?」
巡査は答えなかった。答える代わりに、青い用紙を取り出した。
「自転車の交通違反、今年から反則金の制度が始まりまして」
「反則金?」
「一時停止違反ですと、五千円になります」
五千円。
聞こえてはいた。聞こえてはいたのに、意味がすぐに頭に入ってこなかった。
「注意じゃなくて?」
「ええ、青切符ということになりまして」
「青切符って、車のですよね」
「自転車にも適用されることになりました」
「……五千円」
振り返った。さっきのロードバイクもクロスバイクも電動アシストも、とっくに路地の向こうに消えている。止まらなかった人たちは誰も捕まっていない。止まってくださいという声に止まった自分だけが、ここにいる。
「あの人たちは」
「ええ、まあ……追いつけませんので」
巡査の声に、わずかな苦味がまじった気がした。
青切符を受け取りながら、ふと今朝のテレビを思い出した。アナウンサーが真顔で言う。「自動車と同じだと思って運転してください」。スタジオのコメンテーターもうんうんと頷いていた。
同じだと思って。
免許を取ったことは一度もない。教習所に通ったこともない。信号が赤なら止まる、それは知っている。左側を走る、それも知っている。でも一時停止の標識がどんな形をしていて、停止線が道のどこに引いてあって、「止まる」というのが徐行ではなく完全停止を意味するのだということは、誰にも教わっていない。
自動車と同じだと思って。
じゃあ免許もなしに乗っていたこの五十年は、無免許運転みたいなものだったのか。
前かごの袋から、特売の卵のパックが覗いていた。十個入り百二十八円。五千円あれば卵が三十九パック買える。三百九十個。
青切符を丁寧に四つ折りにして、卵の隣に差し込んだ。
帰り道、いつもの一時停止で今度こそきちんと止まった。左右を確認し、完全に停止し、それからゆっくり漕ぎ出した。
後ろから来たロードバイクが、軽やかに追い越していった。
もちろん、止まらずに。
ふと、朝の横断歩道を思い出した。あの警察官は今ごろ、どこかの横断歩道をまた一人で押して歩いているのだろうか。
正しいことをしている人の背中は、どうしてこんなに小さく見えるんだろう。
たぶん、自分の背中も、今、同じくらい小さい。