桐野が《フルール》に入ったのは、《リヨン》から戻って二度目の春だった。
フルールは駅から少し離れた住宅街にある洋菓子店で、創業は四十年前になる。ショーケースに並ぶのはシュークリーム、ミルフィーユ、フルーツタルト、プリン。どれも教科書通りの古典で、良く言えば堅実、率直に言えば地味だった。
オーナーの村瀬は七十を過ぎていた。桐野を雇ったのは、自分の引退後にも店が続くようにという考えからだった。「好きにやっていい」と村瀬は言った。「ただ、シュークリームだけはレシピを変えないでくれ」
桐野はその約束を守りながら、新しいラインナップを組んだ。リヨンで学んだ技術で、ピスターシュのムースにライムのジュレを忍ばせたアントルメ、カカオの産地別に三種のガナッシュを重ねたボンボンショコラ。ショーケースの左半分は村瀬の古典、右半分は桐野の仕事で埋まった。
SNSが動いた。「住宅街に隠れた本格パティスリー」という紹介がいくつか回り、桐野のアントルメを目当てに電車で来る客が現れた。桐野は手応えを感じていた。
三ヶ月後、村瀬が帳簿を見せた。
桐野の新作は確かに話題になっていた。しかし売上の六割は依然としてシュークリームだった。アントルメは月に二十個、シュークリームは一日に七十個。客単価は上がっていたが、リピート率は桐野の商品のほうが圧倒的に低い。
「来てくれるお客さんは写真を撮って帰るんだよ」と村瀬は言った。責めているのではなく、事実を並べている声だった。「シュークリームのお客さんは写真を撮らないけど、毎週来る」
桐野には反論があった。新しい客層を開拓することと、既存客を維持することは別の話だ。両方やればいい。時間が経てば、新作のリピーターもつく。
「そうかもしれないな」と村瀬は言って、帳簿を閉じた。
秋になって、隣の駅に新しいパティスリーが開いた。シェフは桐野と同じくフランス帰りで、内装は白とステンレスで統一され、ショーケースの照明にまで金をかけていた。SNSでの露出は桐野の比ではなかった。
その店の影響で、桐野の新作を目当てに来ていた客の足が遠のいた。より新しく、よりフォトジェニックなほうへ流れていった。当然の動きだった。
売上が目に見えて落ちた月、桐野は村瀬に相談した。新作のラインナップを見直したい、もっと攻めた構成にすれば隣の店と差別化できる、と。
村瀬は厨房の隅に座ったまま、シュークリームの皮を焼いていた。オーブンの前で生地の膨らみを見る目つきが、四十年ずっとこうなのだろうと思わせる落ち着きだった。
「桐野くん、うちの店に一番長く来てるお客さん、知ってるか」
「坂口さん、ですか」
「坂口さんだ。二十三年になる。娘さんが生まれた年から毎週金曜日にシュークリームを六個買いに来る。娘さんはもう大学生だよ」
桐野は黙った。
「あの人は隣に何が開いても来るよ。坂口さんにとっては、うちのシュークリームは金曜日の一部だから」
村瀬はそれ以上は言わなかった。焼き上がった皮を網に上げ、粗熱を取る作業に戻った。
冬の終わりに、桐野はひとつの注文を受けた。近所の幼稚園の卒園式で配るお菓子を作ってほしいという依頼だった。予算は限られていて、凝ったものは作れない。桐野は小さなマドレーヌを焼くことにした。
型に生地を流しながら、ふと、自分がこの作業に何の抵抗も感じていないことに気づいた。リヨンにいた頃の自分なら、こんな仕事は手を動かすだけの作業だと思っていただろう。
卒園式の翌週、園児の母親が店に来た。子どもがマドレーヌを気に入って、同じものが食べたいと言っている、と。桐野は同じレシピで焼いて渡した。その翌週も来た。翌月も来た。
その頃、桐野自身にある習慣がついていた。朝の出勤途中、駅前の蕎麦屋の前を通る。年季の入った暖簾と、手書きのメニューが貼られた窓。繁盛している気配はないが、朝七時にはもう湯気が立っている。ある朝、桐野はその店に入った。
かけそばを食べた。特別な味ではなかった。出汁は濃いめで、麺は少し柔らかすぎた。だが翌日も入った。同じものを頼んだ。一週間続けたあたりで、この味がないと朝が始まらないような気がし始めていた。
蕎麦屋の主人は桐野に何も聞かなかった。三日目からは桐野が座ると同時にかけそばが出てきた。
ある朝、隣の席の常連が主人に話しかけていた。「もう何年ここ来てるかな」「さあ、数えてないですよ」そういう類の会話だった。
桐野がアントルメの構成を考えるのをやめたわけではない。ただ、考えるときの手つきが変わった。
ショーケースの前で足を止めた客は、三秒でどれを買うか決める。SNSに載る写真は一瞬で流れる。その三秒のために作るものと、坂口さんの金曜日のために作るものは、同じ技術の上に成り立っているが、同じものではない。
桐野のアントルメを買った客は、一度食べて、美しかったと記憶して、それきりだった。村瀬のシュークリームを買った客は、味の細部を覚えているかも怪しい。それでもまた金曜日に来る。味を覚えているのではなく、金曜日にシュークリームを買って帰ることが、その人の暮らしに組み込まれていた。
蕎麦屋のかけそばも同じだった。あの味は審査員の前に出せるものではない。だが桐野はもう二ヶ月通っている。
見てもらえる時間が違うのだ。
ショーケースの三秒に応えるための技術がある。それは正しい。しかし金曜日の二十三年に応えるためには、別の精度がいる。村瀬のシュークリームが地味だから二十三年続いたのではない。毎週同じ味だから続いた。「同じ」であることに必要な精度は、桐野がリヨンで学んだ精度とは種類が違うだけで、劣っているわけではなかった。
桐野は春の新作を三つだけにした。ひとつはショーケースの三秒のためのアントルメ。目を引く構成で、これを入り口にして店を知ってもらう。ひとつはSNS映えを意識した小さなタルト。そしてもうひとつは、マドレーヌだった。あの卒園式で焼いたものと同じレシピの、何の変哲もないマドレーヌ。
村瀬が新作の並んだショーケースを見て、マドレーヌに目を止めた。
「これはどういう狙いだ」
「長く売るつもりのものです」
村瀬は少し笑って、何も言わなかった。
桐野は厨房に戻り、シュークリームの皮を焼く準備を始めた。村瀬と同じ配合で、村瀬と同じ温度で、村瀬が四十年続けてきたのと同じ手順で。坂口さんの金曜日を、いずれ自分が引き継ぐための練習だった。