2026.05.15

右側の男

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2,462文字 約4分

その掲示を、中谷は千回以上見ていたはずだった。

通勤で使う半蔵門線・永田町駅のエスカレーター、乗り口の左側の壁に貼られた黄色いステッカー。毎朝そこを通り、毎朝左側に立ち、毎朝右側を空けた。有楽町線に乗り換える人たちが右側を駆け上がっていく。中谷はスマートフォンの画面を見ていた。
その日、たまたまスマートフォンを家に忘れた。手持ち無沙汰のまま乗り口に並び、ふと目が合った。

「エスカレーターでは歩かず二列でお乗りください」

読んだ。声には出さなかったが、口の中で繰り返した。二列で。
中谷は左側に立った。いつもどおり。右側は空いていて、急ぐ人が駆け上がっていく。二列で、という文字がまだ目の端に残っていた。

その夜、中谷は検索した。

エスカレーターの片側空けは、鉄道会社が公式に「やめてください」と言っている。片側に荷重が偏ると故障の原因になる。片側を歩くのは転倒事故のリスクがある。障害で片側にしか立てない人が乗れなくなる。そして、二列で立ったほうが全体の輸送効率は高いという統計が出ている。片側を歩いて数人が早く着くより、両側に立って全員が少しずつ早く着くほうが、トータルでは速い。
急いでいる人が駆け上がる右側は、合理的に見えて、全体を遅くしている。知っていたような気もするし、初めて知ったような気もした。知っていたとしても、左側に立っていた。それは「知らなかった」のとほとんど同じだった。

翌朝、中谷はエスカレーターの右側に立った。
理由は自分でもよくわからなかった。正義感というほど大げさなものではない。ただ、ルールと書いてあるものを守ってみよう、とだけ思った。いつもコンビニで「箸をつけますか」と聞かれたら「はい」と答えるのと同じくらいの軽さで、右側に足を置いた。

三秒で気づいた。軽さは間違いだった。
背後の空気が変わった。物理的にわかった。気配が詰まる感じ。後ろに立った人がかすかに動いた。
舌打ちが聞こえた。それから「すみません」という声。声の形はしていたが、意味は「すみません」ではなかった。「どけ」だった。中谷は動かなかった。動かなかった、というより、動けなかった。心臓が思ったより速く打っていた。エスカレーターの右側に立っているだけで、こんなに心臓が騒ぐのかと思った。
後ろの人は中谷の右肩をかすめるようにして追い抜いていった。ぶつかったのか、避けたのか、その中間くらいの距離だった。

二日目。

同じエスカレーターの右側に立った。今度は意図的に。昨日の記憶が残っていたから、軽い気持ちではなかった。覚悟というほどのものでもなかったが、少なくとも軽くはなかった。後ろに立った女性が、小さく息を吐いた。ため息とも違う、もっと短い、鼻から抜ける音。何もしていない。中谷は何もしていない。二列で立ってください、と書いてあるとおりに立っているだけだ。それなのに、自分が何か悪いことをしている気分になる。

三日目は少し慣れた。四日目にまた舌打ちをされた。五日目に、スーツの男が「通れないんですけど」と声をかけてきた。
中谷はステッカーを指さした。「二列で、って書いてありますよ」
男は一瞬ステッカーを見て、それから中谷を見て、何も言わずに中谷の横をすり抜けていった。ステッカーに書いてあることは確認した。確認した上で、無視した。
そういうことか、と中谷は思った。

一週間が経った頃、中谷はエスカレーターに乗りながら、周囲をよく見るようになっていた。左側に立つ人たちは、全員がルールを守っている顔をしていた。整然と、一列に、間隔を空けて。誰かがそう決めたわけではない。誰も指示していない。法律にも条例にもなっていない。鉄道会社は「二列で」と言っている。それでも全員が同じ側に立つ。
中谷は思い出す。マスクを外していいと言われてから、実際に外すまでの数ヶ月。飲み会で上司より先に帰ってはいけないという、どこにも書いていない規則。「お気持ち」で動く人事異動。
どれもルールではなかった。ルールの形をした空気だった。
日本人はルールを守る国民だと言われる。中谷もそう思っていた。でもエスカレーターの右側に立ってみてわかった。守っているのはルールではない。空気を読んでいるだけだ。空気がルールの形をしているとき、日本人はルールを守っているように見える。空気がルールと矛盾したとき、日本人は空気のほうに従う。

例外はない。中谷自身を含めて。

二週間目の月曜日。

ホームに降りるエスカレーターで、前に母親と小さな男の子が乗っていた。
男の子が聞いた。「ねえ、なんでみんなこっちに立つの」母親は男の子の手を引いて、「ルールだからだよ」と答えた。
中谷はその後ろで、左側に立っていた。今日は左側だった。昨日も左側だった。一週間の実験を終えて、中谷はいつのまにか左に戻っていた。
右に立つのをやめた日のことは覚えていない。明確な決断はなかった。ただ、毎朝あの小さな抵抗のために心臓を騒がせることに、疲れた。正しさよりも疲れが勝った。それだけだった。

「ルールだからだよ」と母親が言った。
ルールじゃない、と中谷は口の中で思った。でも訂正はしなかった。右側にも立たなかった。エスカレーターは中谷を乗せて、静かに降りていった。

駅のホームで電車を待つあいだ、中谷はステッカーのほうを見た。

「エスカレーターでは歩かず二列でお乗りください」

千回以上見ていた掲示。千回以上無視していた掲示。僅か数日だけ従ってみた掲示。
中谷はポケットからスマートフォンを出して、画面に目を落とした。明日もたぶん左側に立つ。ルールを知っている。空気も知っている。そして自分が空気のほうに従う人間だということも、今は知っている。知っているのと知らないのとでは違う、と思いたかった。

思いたかったが、エスカレーターの右側は、明日も空いている。

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