畑中が《ペタル》のショーケースを空にする判断をしたのは八月だが、きっかけはその半年前にある。
二月の午後、女性客が二人、ショーケースの前で十分ほど悩んでいた。ムースフレーズのアントルメを選んで席に着き、写真を撮り始めた。角度を変えて何枚も。フォークを入れたのは五分後で、ひとくち食べて頷き合い、そこから会話に移った。一時間後、皿にはケーキの半分以上がそのまま残っていた。
畑中はそれを下げながら、自分が何を感じているのか少し時間をかけて確かめた。怒りではなかった。食べきらない客は珍しくない。味が悪いわけでもない。ただ、あの客にとってこのケーキは食べ物ではなく画面の中の色彩だったという事実が、胸のどこかに静かに残った。
開業して七年。ペタルの看板はフォトジェニックな洋菓子だった。ルビー色のグラサージュ、エディブルフラワーを散らしたタルト、ピスタチオグリーンとフランボワーズの赤のコントラスト。畑中自身がその方向を選び、磨いてきた。フランスの学校で学んだ技術の中から、視覚的に最も強いものを実装する。正しかった証拠に、店は繁盛していた。
ただ、ここ二年ほど、畑中は自分のケーキを食べる回数が減っていた。味見はする。けれど仕事が終わった夜に、自分の作ったケーキを食べたいとは思わなくなっていた。
八月、畑中は店を二週間休み、改装した。
壁を白く塗り直した。装飾棚を外し、花も減らす。ショーケースを小さいものに替え、中に並べるケーキを十二種類から五種類にした。
何を残し何をやめるか。畑中が自分に課した基準はひとつだった。夜、仕事が終わったあとに自分が食べたいかどうか。
残ったのはタルトシトロン、カヌレ、バスクチーズケーキ、ガトーショコラ、シュー・ア・ラ・クレーム。どれも技術は使うが、装飾に頼らないものだった。
改装費用は貯金から出した。回収には少なくとも一年かかる計算だった。
再開初日、以前の常連が三組来た。ショーケースを見て、一組は何も言わずに帰った。一組は「前のメニューはもうないんですか」と聞く。もう一組はカヌレを買って帰ったが、翌週は来なかった。
SNSには「ペタルが変わってしまった」という投稿がいくつか上がった。「前のほうが好きだった」というコメントが連なっているのを、畑中は一度だけ見て、閉じた。
九月。売上は改装前の四割になった。スタッフの一人が辞める。畑中は一人で仕込みから販売までをこなす日が増えた。
十月。客足はわずかに戻ったが、客の構成が変わっていた。以前の客ではなく、近所に住んでいるらしい年配の女性が週に二度来るようになった。毎回ガトーショコラをひとつ買っていく。名前は知らない。
十一月のある日、その女性が「ここのガトーショコラ、娘に送りたいんだけど」と言った。畑中は箱を選んで包みながら、この人がケーキの写真を撮っているのを一度も見たことがない、と思った。
十二月。別の客が「ここ、前から何の店でしたっけ」と聞いてきた。ケーキ屋ですよ、改装前も、と答えると「へえ、そうなんですか。最近知って」と言われた。以前のペタルを知らない客がいた。
年が明けて、畑中は帳簿をひらいた。売上は改装前の七割まで戻っていた。客数は減っているが、客単価が上がり、リピート率が倍近くになっている。
ガトーショコラの女性は、いつの間にか毎週来るようになっていた。その娘も、実家の近くに寄るたびに立ち寄るようになった。
三月、桜が咲き始めた頃、畑中は閉店後の厨房で一人、カヌレを食べた。味は改装前と変えていない。ただ、これは自分が食べたいものだった。自分が作りたいものだった。その二つが揃っていることが腹の底で温かかった。
畑中は改装が正解だったとは思っていない。正確に言えば、正解かどうかはまだわからない。
わかっていることはひとつだけだった。改装から半年、売上が四割まで落ちた月に、元に戻そうかと考えた夜がある。ショーケースの照明をつけたまま、がらんとした店内を見ていた夜だ。元に戻せば客は戻る。SNSも動く。テクニック上は何も難しくない。以前の型はまだ倉庫に全部ある。
戻さなかった。理由は単純で、自分の作るものが好きだったからだ。半年ぶりに好きだと思えていたからだ。
覚悟という言葉が正確かはわからない。ただ、戻さなかった夜と、翌朝また五つだけショーケースに並べた朝の間に、何かが決まった。決めたというよりは、戻れなくなった。好きなものを好きだと認めたあとに、好きでないものを並べる気力が残っていなかった。
ある日、出勤途中に通る駅前の蕎麦屋の暖簾が新しくなっていた。紺地に白抜きの文字。店自体はずっと前からある。朝七時には湯気が立っていて、畑中はいつもその匂いで今日の気温を測るような気持ちでいた。常連らしい男が暖簾をくぐるのが見えた。迷いのない足取りだった。
蕎麦屋は蕎麦屋であることをやめていない。暖簾が変わっただけだ。あの常連は暖簾の色など気にしていないだろう。気にしているのは、毎朝同じ味が出てくるかどうかだけだ。
畑中は自分の店に向かいながら、今日の五つのことを考えた。昨日と同じ五つ。明日も同じ五つ。
同じものを並べ続けるという行為が、やがてその店の顔になる。畑中はまだその途中にいた。ペタルの新しい顔が定まるまで、あと何年かかるかわからない。
ただ、ショーケースを空にしたあの朝よりは、並べるものがはっきりしている。それだけで十分だと畑中は思った。
厨房に入り、オーブンの電源を入れた。今日もカヌレから焼く。