彼は扉だった。僕の世界と外界をつなぐ大きな扉。
僕は選んだのだ。僕の世界は彼と共にあったし、それが世界の全部だった。
見られている。光を通さなくなった瞳は、こちらをまっすぐに見つめてくる。背負ったものの重さを吐き出した一瞬だけ、頭が空っぽになる。馬鹿になる。薄い膜の張った瞳がまたたいて、腹に散った白濁を僕は掬い取る。どうするかなんて予測できていたのに、体が動かない。甘い。疲れてると涙が甘くなるって彼は言った。眠れてないんでしょ、と暗い瞳が続ける。気持ちいいのと、お腹に一発食らうのとどっちがいい。おれはどっちでもいいけど、と暗に告げる。どっちも嫌だの拒否権はおそらくない。選ぶのはいつだって彼なのに、選ばされているような気分になる。
腰を引き寄せられ打ち付けられるたびに背が反り筋が軋む。戦慄く肺、はくはくと息を吸おうとしても少ししか入っていかない。瞼が痙攣する。涙の膜を瞬きで払うと、上睫毛に張り付いた雫の粒が目に入る。枕に押し付けられ、開ききった口からは唾液がとめどなく落ちて真白なカバーに染みをつくる。あ、あ、と言葉を覚える前の赤子のように意味のない音だけを繰り返す。まるで壊れたおもちゃのように声をあげてただ律動の衝撃を逃す。それはもはや暴力だった。
背中に羽が生えるんじゃないかと思うほどに、産毛が逆立つのを感じる。押し当てられた手のひら、接地面がびりびりと逆立つ。砂鉄が磁石で吸い寄せられるように、全身の毛が彼に向く。指先が離れ、代わりに熱くて湿り気のあるざらつきが背の根元から駆け上がる。羽の付け根を舌で吸われると、なけなしの知識まで吸い取られるような気がして、頭にもやがかかって馬鹿になる。いっそ手放してしまえば楽なのに、それでは勿体ないとかすかな意識の糸を引く。
ぼやけた視界の中に澄んだ青が写る。こんな至近距離でじっくり、虹彩のひとつひとつを確かめるようになぞり、黒目の奥に残る自分の姿をなにとはなしに見ていると、さり、と髪の生え際を探られ、きつく編んだミサンガを解くように、口が開いた。