朝、原稿を開く。コーヒーより先にファイルを開く癖はいつからか覚えていないが、たぶん編集の仕事を始めた頃からではなく、もっとあとだ。読むことが作業になってからだと思う。
今日の原稿はライターの中沢が書いたインタビュー記事で、飲食チェーンの創業者が業態転換について語るという、まあ、よくある構成のものだった。中沢の文体には癖がある。体言止めを多用する。接続詞が少ない。一文が短く、意味の切れ目と文の切れ目が一致しない箇所がときどきある。読む分にはリズムがあるように見えるが、編集の目で追うと、そのリズムが情報の欠落を隠していることがわかる。
赤を入れる。体言止めをほどいて述語に戻す。接続を補う。一文が短すぎるところは結合し、長すぎるところは割る。中沢の原稿が少しずつ自分の手元に寄ってくる。この作業を「直し」と呼ぶこともできるし、「調律」と呼ぶこともできる。自分では何とも呼んでいない。ただやっている。
三十分ほどで最後まで通す。画面をスクロールして冒頭に戻ると、もう中沢の文章ではなくなっている。中沢の取材内容が、自分の文体で再配置されたものがそこにある。中沢はこれを嫌がらない。嫌がるライターもいるが、中沢は「読みやすくなってる」とだけ言って通す。たぶん、自分の文体にそこまで執着がないのだと思う。
原稿を閉じて、TLを開く。
ここでもやることは同じだ。正確には、同じだと思ったことはない。意識して比べたことがないから同じとも違うとも思わない。ただ、TLを開いたときの目の動きは、原稿を開いたときの目の動きと、おそらく似ている。
フォローは二百十四。リストは七つ。ミュートワードは数えたことがないが、たぶん六十前後ある。この数字はどれも何かの方針に基づいて決めたわけではなく、結果としてこうなっている。歯を磨いたあとに歯ブラシの角度を記録しないのと同じで、最適化の結果は覚えているが最適化の過程は覚えていない。
TLには今朝も読むに値するものがいくつかあり、読むに値しないものは表示されていない。当たり前だが、表示されていないものは認識できないので、「今日も不要なものがなかった」という感想すら持たない。ないものはない。
出版社の先輩が昨日上げた書評を開く。目で追いながら、自分ならこの文をどう書くかを考えている。先輩の文体は嫌いではないが、助詞の選び方に甘いところがある。「における」が多い。読みながら、頭の中で赤を入れている。先輩に提出するわけでもない赤を。
これは癖だ。仕事の外に漏れ出した癖。他人の文章を読むとき、自分の文体に翻訳しながら読む。翻訳しないと意味が入ってこないわけではない。たぶん、入ってくる。ただ翻訳したほうが速い。あるいは、翻訳しないという選択肢を検討するより先に翻訳が終わっている。
これを人に話したことはない。話す必要がないから話さないのであって、隠しているわけではない。
木戸から連絡が来たのは木曜の昼で、社食でカレーを食べているときだった。
木戸とは大学の文芸サークルで一緒だった。サークルといっても部室で本を読んで感想を言い合う集まりで、作品を書いていたのは十二人中三人くらいしかいなかった。木戸はその三人のひとりで、自分はどちらかというと他人のテキストに意見を言う側だった。今思えば最初から編集者だったのかもしれないし、今の仕事が過去の記憶を再編集しているだけかもしれない。どちらでもいい。
LINEの通知に木戸の名前を見たとき、最初に思ったのは「木戸って今なにしてるんだったか」だった。最後に会ったのは二年前か三年前で、共通の知人の送別会だった気がする。年賀状は送っていない。SNSではつながっているはずだが、木戸の投稿がTLに出てきた記憶がない。ミュートした覚えもない。ただ、アルゴリズムか、あるいは自分のフォロー構成の結果として、木戸は自分のTLの外にいた。
メッセージは簡潔だった。来週の土曜、サークルのOBが何人か集まる。来るか。場所は高田馬場。
行く理由はとくになかったが、断る理由もなかった。「行く」と返した。
土曜日、高田馬場の居酒屋に着くと、木戸ともうひとり、名前を思い出すのに数秒かかった水島という男がすでにいた。木戸は少し太っていた。水島は変わっていなかった。こういう差は何に起因するのか、一瞬だけ考えて、やめた。
最初の一時間は大学時代の話をした。共有されている過去があると会話は楽だ。同じ記憶の別のアングルを出し合う作業は、ゲラの突き合わせに似ている。事実関係の齟齬はあるが、大筋は一致している。その安心感で酒が進む。
変わったのは二時間目からだった。
木戸が、ある話題を出した。
何の話だったかは、正確に書くと主旨がそちらに引っ張られるので書かない。政治でも科学でも社会問題でもよい。大事なのは、木戸がそれを「当然共有されている前提」として話したことだ。ニュースの引用ではなく、意見の表明でもなく、天気の話をするように。「最近暑いね」と同じ重さで、その話題に触れた。
自分のTLに、その話題は存在しなかった。
存在しなかったという言い方は正確ではない。かつて存在していた可能性はある。存在していた時期に、関連するアカウントをフォローから外したか、関連するワードをミュートしたか、あるいは何もしなかったがアルゴリズムが非表示にしたか。いずれにせよ、今の自分のTLに、それはない。ないものは認識できない。認識できないものについて「知らない」とも「知っている」とも言えない。ただ、ない。
なかったものが、木戸の口から出てきた。
木戸の言葉を聞きながら、自分が何をしていたかというと、編集をしていた。木戸の発話を、頭の中で自分の文体に変換しようとしていた。いつもの癖だ。本を読むとき、TLを読むとき、原稿を読むとき、自分はつねに他人の言葉を自分の文体に翻訳しながら受け取る。
木戸の話が、翻訳できなかった。
語彙が特殊だったわけではない。論理が破綻していたわけでもない。ただ、その話を自分の文体に移し替えようとすると、土台がなかった。自分の文体で再構成するための前提知識、文脈、参照先が、自分の中にまったくなかった。翻訳元のテキストはあるのに、翻訳先の辞書がない。
中沢の原稿なら直せる。先輩の書評なら頭の中で赤を入れられる。TLに流れてくるテキストは、すべて自分の文体圏の内側にある。だから読める。だから編集できる。
木戸の言葉は、圏の外から来ていた。
「……うん、まあ、そうなんだ」
自分が何か返したのは覚えている。たぶん相槌を打った。中身のない相槌を。木戸はそれを同意と受け取ったかもしれないし、興味のなさと受け取ったかもしれない。どちらにしても会話は流れた。水島がビールを頼んで、話題は別のところへ移った。
帰りの電車でTLを開いた。
二時間見ていなかっただけで、未読がそれなりにたまっている。スクロールする。読む。読みながら翻訳する。出版関連のニュース、フォローしているデザイナーの仕事の写真、書評家の新刊紹介。すべて自分の文体で読める。すべて、圏の内側にある。
快適だった。いつも通り、快適だった。
ただ、その快適さを「快適だ」と意識したのは、たぶん初めてだった。
いつもは意識する必要がなかった。息を吸って「息が吸えた」と思わないのと同じで、TLを開いて「読めた」と確認する必要はなかった。今日はそれを確認している。読める。翻訳できる。全部、自分の文体の中にある、それを確認しなければならない時点で、何かがずれている。
何がずれているのかはわからない。わからないが、いつもと同じTLが、いつもと同じであることが、いつもとは違う見え方をしている。木戸の言葉がTLに紛れ込んでいるわけではない。ミュートもフィルタも正常に動いている。設計は壊れていない。壊れていないのに、壊れていないことを確認しているこの目が、いつもと違う。
電車が最寄り駅に着く。TLを閉じる。駅を出て、夜の空気を吸う。
明日の朝、また原稿を開く。中沢ではなく別のライターの、別の記事。それを自分の文体に引き寄せて、整えて、送り返す。月曜にはライターが確認して、たぶん「読みやすくなってる」と言う。
自分は、あらゆるテキストを、自分が読める形に編集しながら生きている。
それはたぶん、うまくいっている。