電話の向こうで息子が何か言いかけたのを、正志は遮った。
「だからな、返せないなら最初から借りるなって話だろうが」
声が自分でも思ったより大きくなっていた。ダイニングテーブルに片肘をつき、もう片方の手で携帯を耳に押しつけている。テーブルの上には夕食の皿がまだ残っていて、妻の恵子はとっくにリビングへ引っ込んでいた。
きっかけは今日の昼だった。職場の携帯に知らない番号から着信があり、出ると相手はK大学の附属図書館だと名乗る。お子様にお借りいただいている資料が返却期限を大幅に超過しておりまして、と事務員の丁寧な声が続いた。ご本人に何度かご連絡したのですが応答がなく、緊急連絡先としてご登録いただいているお電話番号に。
正志は会議室の隅で頭を下げながら、はい、はい、申し訳ありません、と繰り返した。周囲に聞かれていないか気になった。五十三にもなって、息子の不始末で大学から電話を受ける親がどこにいる。
「お前さ、恥ずかしいと思わないのか」
電話の奥で、息子の拓也が小さく息を吐いた。
「……返すよ、明日」
「明日じゃなくて、なんで今まで放っといたのかって聞いてんだ」
「忙しかったんだって。ゼミの……」
「忙しいのはみんな同じだろ。忙しくたってやることはやるんだよ、普通は」
拓也はそれ以上何も言わなかった。正志には、それが反省ではなく面倒くさそうな沈黙に聞こえた。
「いいか、明日必ず返せ。二度とこっちに電話が来るようなことすんなよ」
通話を切った。
携帯をテーブルに置くと、自分の呼吸が荒いことに気がついた。怒鳴るつもりはなかった。ただ、あの電話がどうしても許せなかった。たかが本の返却ではない。それくらいのことが管理できないのかという話でもない。大学側が、親に連絡してきたのだ。二十一にもなった人間の尻拭いを、親がさせられたのだ。
テーブルの上、食器の奥に、クリアファイルが一枚あった。
昨年の十一月に届いた保険の見直し申請書だった。記入欄は半分ほど埋めたところで止まっている。提出期限は十二月末だった。恵子にも一度「あれ出した?」と聞かれて、ああもうやる、と答えた。それが一月で、もう五月になっている。届いていたはずの督促のハガキは、いつの間にかどこかへいった。
正志はクリアファイルを手に取り、中身を確認するでもなく裏返した。目の前にあると落ち着かない。冷蔵庫の上にでも置いておこう、と思った。週末にやればいい。
リビングではテレビのバラエティ番組の笑い声がしていた。正志は食器を流しに運び、蛇口をひねった。水の音が、さっきまで自分が出していた声をきれいに押し流していった。