ぶつかった拍子に、棚に置いてあった本やら小物やらが落ちた。神経を逆撫でするような破損音はしなかった。それに安堵している自分に、透はまた腹が立つ。
始まりは、いつもと同じだ。透が笑ったのだ。律が怒っているのに、それをなだめようとして、反射のように笑った。その笑顔が律にとって何を意味するか、透はわかっているはずだった。
「顔は殴らないでおいてやったんだ」
律が目をすがめて嘯く。顎をあげ、普段は丸まりがちな肩を張る。自分を透より大きく見せたいときの癖だった。十年以上見てきたのに、透は見飽きないでいる。
押し合った拍子にぶつけた脇腹が、まだ熱を持っている。透だって突き飛ばし返したし、律の手首をつかんで止めもした。鍛えているのは透の方で、本気でやれば力では勝てる。律は運動神経だけは無駄にいい男だ。本当は鍛えた方がいいのも、食事に気をつけた方がいいのも、本人がいちばんわかっている。わかったうえで、深夜にカップ麺をすする。
「だいたい、喧嘩する時は手加減すんなって言ったのお前だろ」
透のこめかみのあたりを、律が人差し指でとんとんとノックする。ちゃんと覚えてるからな、という意味だった。ベタな芝居だ、と透は思いかけて、芝居をしているのは本当はどっちだ、と思いなおす。
「もう時効だろ」
そう言ってみても、律は腹の立つ顔で口元を歪めるだけだ。こちらに打つ手はない。ホールドアップ。律が嫌な思いをするなら、負けるのは透にとってやぶさかではない。律はそれを察するたび、いつもひどく腹を立てる。今日も、口の歪みのまま、目だけが笑っていない。
こんなとき、透が笑えば、律もすこしは機嫌をなおしてくれる。だから、笑う。目尻を下げ、口の両端をやわらかく持ちあげる。律のことが好きだ、ということが、それで伝わればいいと透は思う。
律は、笑い返さなかった。
それどころか、見るからに気分を害したような顔で視線をそらし、棚から落ちた本を拾いあげる。並べ直すしぐさは、透が朝にやるよりずっと丁寧だ。怒っているときの律ほど、こういう所作が綺麗になる。それを知っているのは、たぶん透だけだ。
知っているのなら、もっと、うまくやれてもいいはずなのに。