コーヒーメーカーをもらった。
箱に入っていた。リボンはなかったけれど、無地の紙袋にきちんと収まっていて、少なくとも何かのついでではなさそうだった。ありがとう、と言った自分の声に嘘はなかったと思う。目の前で開けたら喜ばなければならないので持ち帰ってから開けた、というくらいの正直さで。
コーヒーは飲めなくはない。ミルクと砂糖を入れればどうにかなる。どうにかなるというのは、つまり好きではないということで、わざわざ自分で豆を買う人生を三十年近く送ったことがない。戸棚の奥に誰かの土産の小さなドリップパックが数袋あったはずだが、それとて来客用にと一応置いてあるだけで、来客自体がほぼなかった。
コーヒーメーカーはしばらくキッチンの隅にいた。箱から出して、とりあえず置いた場所にそのまま居座っていた。炊飯器とトースターの間の、どちらにも属さない隙間に収まったのが妙にしっくりきて、動かす理由がなかった。
ある朝、やかんを火にかけようとして、ガスコンロの点火がうまくいかなかった。カチカチと何度か空振りして、三回目でようやくついたが、その数秒の苛立ちの中でふと隣のコーヒーメーカーが目に入った。
水を入れてスイッチを押せば湯が出る。それだけの機械だ。考えてみれば、コーヒーを抽出する過程の大半はただの湯通しで、フィルターの中身が豆である必然性は機械の側にはない。
ティーバッグをひとつ、フィルターの受けに置いた。
普通にお茶が出た。
それからしばらくは毎朝そうしていた。やかんの出番が減り、コンロの不調を直す気もなくなった。湯の温度がコーヒー用にやや高いのか、紅茶の出がいつもより濃い気がするけれど、ミルクを入れるからちょうどいい。ちょうどいい、というのは、つまり最適ではないということだが、朝にそこまでの精度を求めていない。
変わったのは、茶葉を買うようになったことだ。
ティーバッグで十分だった生活に、なぜわざわざ茶葉を持ち込んだのか、自分でもよくわからない。ただ、フィルターに茶葉を直接入れて湯を通すと、ティーバッグよりも色が鮮やかに出た。それが面白くて、一度やったらやめられなくなった。アッサム、ディンブラ、キームン。名前を覚えるつもりはなかったのに、気がつけば缶が三つ並んでいる。
くれた人は、自分が紅茶しか飲まないことを知らない。知らないのは仕方がないと思う。そういう話をするほどの間柄ではなかった。コーヒーメーカーを選んだのはきっと無難だと思ったからで、実際、大抵の人間には無難だろう。自分がその大抵に入っていなかっただけのことだ。
でも、と思うことがある。あの人がもし、コーヒーを飲んでほしかったのではなく、朝の時間がちょっと変わればいいなくらいの気持ちで選んでくれたのだとしたら、それはちゃんと届いている。届き方はだいぶ違うけれど。
コーヒーメーカーでコーヒーを淹れたことは、まだ一度もない。缶の隣にドリップパックが数袋、買った頃のまま残っている。たぶんこの先も減らない。
来月あたり、コンロを修理に出そうと思っている。思ってはいるが、たぶんしばらくはこのままだ。