2026.08.26

誕生日

サイト限定

988文字 約2分

律の誕生日に、透はディナーを予約した。律が好きだと言ったことのある、神楽坂の隅の店だ。前日のうちにケーキも頼んでおいた。律の苦手な、苺の上にやたらクリームが乗っているのではない、ふつうのチョコのやつ。

当日、家を出る前に、透は花を抱えて律の前に立った。リビングの真ん中で、両手で抱えて、笑った。

「おめでとう」

律はソファに座ったまま、顔を上げた。花を見て、それから透の顔を見た。視線が、花から透へ移るときの間が、いつもより半拍長かった。

「ありがとう」

律の声は、低かった。低かったが、嫌そうではない。透は安心して、花を律の隣の床に置いた。

「予約取ってあるから、七時に出よう」

「うん」

律は短くうなずく。透はそのまま続けた。

「ケーキは帰ってから出すよ。チョコのやつ」

「うん」

うん、が続いた。透が次の言葉を探していると、律が口を開いた。

「お前これ、誰のためにやってる」

訊かれた意味がわからなかった。

「誰のため、って」

「俺の誕生日だってのはわかってる。けどこれ、お前が誰かに教えてもらった《恋人の誕生日のやつ》を、なぞってる感じがする」

透は黙った。なぞっている、とは思っていなかった。律が好きだと言った店だし、律が苦手なケーキは外したし、花は律の部屋に合う色を選んだ。全部、律のために考えた。考えたのに、なぞっている、と言われる意味が、よくわからない。

「おれ、なぞってるかな」

「自覚ないだろ。それがいちばんやばい」

律は花を一輪だけ抜いて、ソファのクッションの上に置いた。残りの花束は、抱え直そうと透が手を出すと、もういい、と短く制された。

「予約は行く。ケーキも食う。けど、お前さ、今日いっかい、なんも準備しないで俺の隣にいてくれない?」

なんも準備しないで、という言葉が、透の中にうまく入ってこなかった。準備しないで律の隣にいる自分、というのが、どうしてもイメージできない。準備をしてあげるのが好きで、それが律のためになると思ってきた。それを、しない、というのが、どういう状態なのか、わからない。

「やってみる」

そう答えた声が、舞台で台詞を引き受けるときと同じ抑揚をしていたことに、透は最後まで気づかなかった。

掌編 シリーズの他の作品

  1. 手つき
  2. ホールドアップ
  3. 湯通し
  4. 輪郭をなぞる
  5. 0.5秒
  6. 穴埋め
  7. 行きつけ
  8. 体質
  9. 密閉
  10. ご機嫌のゆくえ
  11. 秋の日は鶴瓶落とし
  12. 人肌は癖になる
  13. うちのママの絵
  14. 指定席
  15. 風邪をひいた時に見る夢
  16. 飽和食塩水
  17. 促音便
  18. 影送り
  19. 苦しそうな顔をする
  20. 頭を撫でる話
  21. 横溢
  22. 迷信に頼りたくなる日
  23. 懺悔する癖
  24. 雨は地に恋して落ちてくる
  25. 調律
  26. 督促
  27. 青切符
  28. 空にする
  29. 金曜日の六個
  30. 面接後の儀式
  31. 赤字
  32. 体操服
  33. 鰤
  34. 全員まる
  35. 右側の男
  36. 若竹色のラリエット
  37. 鏡のかけら
  38. 図々しい
  39. 走性
  40. 体温
  41. 馬鹿になる
  42. なくしたくない
  43. 正解の温度
  44. 北極星のままで
  45. 過淡
  46. ルブタン履いて外股の女
  47. 発泡ウレタンの日