四限目の数学は、二次関数の最大値と最小値をやっていた。
黒板の放物線を写しながら、頂点の座標を書き込もうとしたところで手が止まる。来た。頭の奥のほう、後頭部の少し上あたりで、ふだんは弛んでいる糸がすうっと張りつめる感覚。契約者の誰かが、あの番号に電話をかけた。
シャーペンを置いて、頬杖をつくふりをした。隣の席の子がちらっとこっちを見たけれど、授業中に突っ伏す生徒なんて珍しくもない。目を閉じて、張りつめた糸のほうへ意識を傾ける。教室の音が遠ざかっていく。先生の声、誰かがページをめくる音、廊下から聞こえる体育のホイッスル。全部が薄れる。
白い。
そこに色はない。広さもない。天井と床の区別がつかない空間に、私は立っている。精神世界。私はそう呼んでいるけれど、正確になんなのかは自分でもわからない。契約者が専用の番号に電話をかけたとき、入れ替わりの前に開く場所。ここで状況を聞いて、段取りを決めて、それから入る。
目の前に、女の人が立っていた。
二十五歳くらい。ノースリーブの白いワンピースに、淡いピンクのカーディガンを肘にかけている。右の手首には遊園地の入園リストバンド。髪はゆるく巻いてあって、朝から気合いを入れてきたのが伝わる。顔は、泣く一歩手前を、かろうじて踏みとどまっている、という感じだった。
西村結衣。契約者リストの情報が浮かぶ。二十五歳、会社員。契約は三ヶ月前。これまでに利用歴なし。つまり、初めての電話。
西村さんは自分の手を見て、それから周囲を見回して、最後に私を見た。初めて電話してきた人は大体こうだ。まさか本当にどこかに飛ばされるとは思っていなかった顔をしている。
「電話したら……ここ、なんですか」
「説明は後にします。時間がないので、状況を教えてください」
仕事の声を出す。学校では出さない声。落ち着いていて、平たくて、感情の波を意図的に抑えた声。これがないと相手が余計に焦る。
「遊園地にいるんですけど」
「はい」
「彼氏と来てて、途中で『ここで待ってて』って言われて、ベンチに座ったんです。そしたら急に、音楽が鳴り始めて」
「フラッシュモブですね」
西村さんの目が大きくなった。
「わかるんですか」
「パターンがあるんです、この仕事」
サプライズプロポーズの依頼は初めてだけど、嘘はついていない。「断れない状況を作って追い込む」という構造には、いくつかの定型がある。フラッシュモブ、大勢の前での告白、親族を集めた食事会。手口が違うだけで、やっていることは同じだ。退路を塞いで、善意の観客を盾にして、断るコストを最大限に引き上げる。
「いまどの段階ですか」
「わからない、踊ってる人たちが増えてきて、周りの人がスマホ出し始めて。たぶんもうすぐ、彼が出てくる」
時間がない。手早く聞く。
「彼の名前は」
「高瀬雄大です」
「付き合ってどのくらいですか」
「二年半」
「断りたい理由を、一言で」
西村さんの唇が震えた。それから、震えを噛み殺すように、奥歯に力を入れるのが見えた。
「全部、自分の思い通りにしたがるんです。私がサプライズ嫌いだって、何回も言ったのに。今日だって聞いてない。聞く気がない。最初からずっと、私の話を聞く気がないんです」
「二年半、その状態で」
「最初はいい人だったんです。でもだんだん……」
「わかりました」
聞くべきことは聞いた。これ以上は要らない。感情を掘り返すのは、私の仕事じゃない。
「プロポーズを受けてもいいかもっていう気持ちは、ありますか」
これだけは、確認する。毎回じゃないけれど、状況が大きい案件のときは必ず聞く。入れ替わってから「やっぱり受けたかった」では取り返しがつかない。
西村さんは少し黙った。白い空間に沈黙が落ちて、それから彼女は息を吐いた。
「……一瞬、思いました。逃していいのかなって。二年半だし、この先こういう人が現れるかもわかんないし」
「はい」
「でも、こんな人と一緒になったら困るの、自分なんで」
声が変わった。泣く手前の揺れが消えて、地面を踏んだ音がした。この声が聞ければ十分だった。
「入れ替わりの説明をします。私があなたの体に入って、プロポーズを断ります。その間、あなたは私の体に入ります」
「はい」
「私はいま高校にいて、四限目の数学の授業中です」
「え。高校生なんですか」
「はい。ノートだけ取っておいてもらえると助かります。黒板の左上のほうに書いてある式を写せば大丈夫です」
西村さんは一瞬ぽかんとして、それから今日初めて、ほんの少しだけ笑った。
「わかりました。ノート、取ります」
「制限時間は十五分です。十五分経ったら、自動的に戻ります。それまでに終わらせます」
「十五分って、足りるんですか」
「断るのに十五分もかかりません」
白い空間が揺れる。糸が震えて、繋がりが太くなっていく。入れ替わりが始まる。
「あとひとつ。彼が暴力を振るってきた場合は、こちらで対処します。警察にも連絡を入れますので、あなたが体に戻ったときには安全な状態にしておきます」
西村さんが何か言おうとした気配があったけれど、それは白い空間に溶けて、私の意識は別の場所に流れ込んだ。
目を開ける。
まず光。外の光だ。教室の蛍光灯じゃない。五月の午後の、容赦なく明るい太陽光。目が眩んで、反射的に手を翳す。手が、私の手じゃない。指が長い。爪にベージュのネイルが塗ってある。右手首にリストバンド。
木製のベンチに座っていた。目の前に広場があって、中央に大きな噴水がある。水が三段に分かれて落ちる、古めかしい造りのやつ。その向こうに観覧車が見えた。広場にはすでに人だかりができていて、ダンサーが五、六人、揃いのTシャツを着て踊っていた。音楽はスピーカーから流れている。明るいポップス。歌詞が聞き取れる距離。
周囲を確認する。観客がスマホを構えている。あちこちで小声が飛び交っている。「プロポーズだって」「やばい」「撮って撮って」。全員がこちらを、正確にはこの体の持ち主を、見ている。
自分の体を確認する。白いワンピース。足元はストラップのあるサンダル。ヒールは三センチくらい。走れなくはないが、柔道をやるには向いていない。身長は私より十センチ以上高い。肩の位置が違う。重心が違う。脚が長くて、地面までの距離に違和感がある。
三十秒で慣らす。体の癖を読む。この人は左重心で、猫背気味で、座っているときに足を組む癖がある。柔道の基本に切り替える。背筋を伸ばす。重心を真ん中に持ってくる。両足を地面につける。
音楽が盛り上がる。ダンサーの一人がこちらに手を差し伸べた。立って、こっちに来て、という合図。周りの観客が期待の目でこちらを見ている。
立ち上がった。
ヒールの感触に一瞬だけ意識を取られたけれど、すぐに補正する。ダンサーに手を引かれて、広場の中央に連れていかれる。噴水の正面。真正面。最高のロケーション。最悪のシチュエーション。
ダンサーたちが両脇に開いて、道を作った。噴水の向こう側から、男が歩いてきた。白いシャツに紺のジャケット。髪はセットしてある。手には赤い薔薇の花束。大きい。三十本はある。
高瀬雄大。
西村さんの記憶は私には流れてこない。入れ替わりは体だけで、記憶は共有しない。だから私はこの男の顔を知らないし、二年半の蓄積を持っていない。見えるのは今この瞬間だけだ。
高瀬雄大は階段を降りてきた。笑っている。感動的な場面にふさわしい、優しくて、自信に満ちた笑顔。この笑顔の裏に何があるかを私は知っている。が、それは判断材料じゃない。依頼者が「断って」と云った。それが全てだ。
音楽が止まった。
広場が静まる。スマホのカメラだけが動いている。高瀬雄大は私の、西村さんの、正面に立って、ゆっくりと片膝をついた。
「結衣」
薔薇の花束を差し出す。赤い。重そうだ。
「二年半、一緒にいてくれてありがとう。俺は結衣と出会えて、本当に」
「お断りします」
言葉を遮った。高瀬雄大のセリフが終わるのを待つ理由がない。「結婚してください」まで言わせたら、断るダメージが双方にとって大きくなる。切るなら早いほうがいい。仕事の鉄則。
広場が凍った。
音が消えた。ダンサーが動きを止めた。観客のスマホが、一瞬だけ揺れた。
高瀬雄大は片膝をついたまま、花束を差し出したまま、固まっていた。それから、笑顔が、ゆっくりと、パテが剥がれるように、崩れていった。
「え」
「お断りします。プロポーズのお返事は、いいえ、です」
二度言う。聞き間違いの余地を消すため。
高瀬雄大が立ち上がった。花束が揺れて、薔薇の花弁が一枚、石畳に落ちた。
「ちょっと待って。結衣、何言って」
「何回も言ってると思いますけど、サプライズは嫌いです。それから、人の話を聞いてください」
西村さんの言葉を借りた。正確には、西村さんが精神世界で言ったことを、断りの文脈に乗せた。私自身の感情は入っていない。入れる必要がない。
高瀬雄大の顔が赤くなった。恥ずかしさか、怒りか、たぶん両方。周囲の視線が突き刺さっている。さっきまで「感動の瞬間」を見届けるつもりだった観客が、今は気まずそうに目を逸らしたり、逆にもっとスマホを近づけたりしている。
「ここで、こんな大勢の前で」
「大勢の前で聞いたのはそっちです」
高瀬雄大の目が据わった。一歩、こちらに詰めてきた。声が低くなる。
「ふざけんなよ。俺がどんだけ準備したと思ってんだ」
「知りません」
「お前」
腕を掴みにきた。右手。花束を持っていないほうの手。
反射的に半身になる。この体のリーチと重心を計算して、掴まれる前に右手首を外側に回して払う。柔道の技というほどのものじゃない。相手の手が空を切っただけ。ただ、この体は私の体じゃないから、動きに一瞬のラグがある。サンダルの踵が石畳に引っかかって、少しだけよろけた。
高瀬雄大がもう一度手を伸ばそうとした。今度は肩を掴もうとしている。
「触らないでください」
声を張った。広場に響く音量で。これは観客への宣言でもある。「この男が手を出そうとしている」ということを、全員の目の前で確定させる。
高瀬雄大の手が止まった。さすがに、スマホが並んだ前で女の肩を掴む度胸はなかったらしい。
「お返事は以上です。失礼します」
踵を返した。広場を横切る。人だかりの隙間を縫って、園内の通りへ歩く。ヒールの音が石畳に響いている。背中に高瀬雄大が何か叫んだ気配があったけれど、振り返らなかった。
腕を掴みにきた。あの男は手を出した。やることは決まっている。
通りを歩きながら、まずスタッフを探した。すぐに見つかった。ポップコーンのワゴンの横に、制服を着たスタッフが一人立っている。早足で近づく。
「すみません。噴水の前の広場で、男性に腕を掴まれそうになりました。まだ近くにいると思います」
スタッフの表情が変わった。こういう場面のマニュアルは、遊園地ならあるはずだ。
「大丈夫ですか。怪我は」
「ありません。ただ、また来るかもしれないので、安全な場所に移動したいです」
スタッフが無線で連絡を取りながら、バックヤードの入り口のほうへ誘導してくれた。歩きながら、西村さんのバッグからスマホを出す。ロックがかかっていない。緊急通報にロックは要らないけれど、かかっていないほうが都合がいい。
110番を押した。
「事件ですか、事故ですか」
「事件です。遊園地内で男性に腕を掴まれました。園のスタッフに保護してもらっていますが、相手がまだ園内にいます」
場所、相手の特徴、自分の名前を、西村結衣の名前で伝える。電話の向こうの声は事務的で、淡々としていて、それが今はありがたかった。
「わかりました。そのまま安全な場所でお待ちください」
スタッフルームに通された。簡素な部屋だった。パイプ椅子と事務机と、壁に貼られたシフト表。遊園地の裏側は、どこも同じような味気なさだ。
パイプ椅子に座る。入れ替わりから十分。残り五分。
西村さんの体は、少し震えていた。入れ替わりでは記憶は共有しないけれど、体の反応は残る。西村さんの体が覚えている恐怖や緊張や、二年半分の我慢が、筋肉の震えとして表面に出てくる。手を膝の上に置いて、意識的に力を抜いた。大丈夫。もう終わった。
この体を返すとき、できるだけ安全な状態で返したい。スタッフがいる。警察も来る。高瀬雄大はここには入れない。あとは西村さんが、自分の言葉で事情を話せばいい。
残り二分。
頭の奥で糸が緩み始める。入れ替わりの終わりが近い。この体から抜けて、数学の教室に戻る。西村さんはこのパイプ椅子の上で目を覚ます。スタッフルームの中で。警察が来るまでの、安全な場所で。
断るのが私の仕事。断ったあとの人生は、本人のものだ。でも、その人生を始める場所くらいは、安全にしておきたい。
糸が解ける。視界が白くなる。
目を開けたら、黒板だった。
二次関数の放物線がまだそこにある。先生は板書を続けていて、教室の空気は五分前と何も変わっていない。頬杖をついたまま十五分が経っていたはずだけれど、誰も気にしていない。
ノートに目を落とす。私の字じゃない筆跡で、二次関数の式が三行書き足してあった。丁寧で、読みやすい字。括弧の閉じ方が几帳面だった。
ちゃんとノート取ってくれたんだ。
それだけのことなのに、少し笑えた。
シャーペンを取って、西村さんの字の続きから書き始める。放物線の頂点。最大値と最小値。定義域が変わると、答えも変わる。
頭の奥の糸は、もう弛んでいた。
次の呼び出しがいつ来るかはわからない。今日かもしれないし、来月かもしれない。同時に二人から呼ばれたらどうするかという問題は、まだ解決していない。サブスクの契約者は増えているのに、私の体はひとつしかない。そのうちどうにかしないといけないけれど、今は考えないことにする。
五限目が始まるまで、あと十分。
ノートの端に、小さく書いた。
〈四限中、代筆ありがとうございました。無事お断りしました。 関〉
これは消さずに残しておく。次に西村さんが念じたとき、もしあるなら、精神世界で見せてあげよう。あなたの字、読みやすかったですよ、と。
チャイムが鳴った。教室が動き出す。私は背筋を伸ばして、次の授業の教科書を出した。