金曜の夜だから混んでいた。座敷に通されるまで十分近く待って、ようやく靴を脱いだ。
「とりあえず生みっつ」
そう云って、北村は店員を呼んだ。奥田と寺田はほぼ同時に上着をたたんだ。三人で飲むのは正月ぶりだった。大学の同期で、卒業してからもう十五年近く経つが、こうしてたまに集まる関係だけは続いている。北村は出版社の漫画編集者、奥田はITの会社員、寺田はフリーランスのグラフィックデザイナー。
ビールが来て、雑に乾杯した。
「太った?」
「お前に言われたくない」
「二人とも老けたよ」寺田がにやにやしている。「俺もだけど」
しばらくは当たり障りのない話をしていた。奥田の会社の移転、北村の飼い猫の膀胱炎、寺田が最近キャンプにはまっていること。枝豆と焼き鳥が来て、会話が途切れたところで奥田がジョッキを置いた。
「そういえばさ、アニメ、なんか流行ってるやつ、タイトルだけ知ってたから見てみたのよ。舞台もやってるやつ」
「ああ、あれ」寺田が反応した。「俺もあれ気になってた」
「全然面白くなかった」
「マジで?」
「AIに聞いたら、漫画がダントツ面白いって言うわけ。アニメはテンポが潰れてるって。まあそうだろうなと思って、じゃあ漫画読むかって」
「読んだ?」
「読んでない」
北村は枝豆をつまんだ。「なんで」
「めんどくさいから。どのアプリで読めるかわかんないし、検索したら三つくらいストアが出てきて、どれも会員登録しろって出てくるし」
「あるある」寺田がうなずいた。「俺も同じ経験ある。結局面倒になって読まなかった」
北村は何も言わなかった。焼き鳥のねぎまを取って、タレを皿の端に落とした。
「で」奥田はジョッキを傾けた。「一巻買うとしたら六百八十円なんだけど、六百八十円が高いとか安いじゃなくて、面白いかどうかわかんないものに六百八十円賭けるのがだるいんだよ」
「わかる。昼飯に千円は使うのにな」
「そう。昼飯の千円は迷わないのに、漫画の六百八十円は迷う。なんでかっていうと、つまんなかったときの逃げ場がないからだと思うんだよね。サブスクだったらつまんなかったら閉じて別のを再生すればいい。金は変わんない。漫画は一冊ごとに買い切りだから、はずれを引いたら損した気分になる」
「だからそもそも手を出さなくなるんだよな」寺田が奥田の言葉に被せた。「買うかどうか考えること自体がめんどくさい。サブスクならそれがないじゃん。月額の中に全部入ってるんだから、つまんなかったら次に行けばいい。損得の感情がなくなる」
「それ」奥田がジョッキを持ち上げた。「それなんだよ。ただ面白い漫画を読みたいだけなのに、なんでこんなに手前のハードルが高いんだよ」
二人の視線が北村に向いた。
「俺に言われても」
「出版社にいるんだろ」
「編集者は棚の作り方を決める側じゃないよ。プラットフォームの設計は別の部署だし、そもそも経営判断だし」
「じゃあ経営は何考えてんの」
「単行本が売れることが全部の前提になってる。サブスクにしたら単行本の売上が食われる。特に売れてるタイトルほど出したくない」
「でもグッズやライセンスで桁違いに稼いでんじゃないの」
「トップ層はな。問題は中堅で」
「あ、その話」寺田が遮った。「俺のクライアントの漫画家がまさにそれ言ってた。中堅って一番きついって」
「どういう話?」
「その人、電子でそこそこ売れてたらしいんだけどさ、ある月を境に数字が急に寝たんだって。月百万いってたのが二十万くらいで横ばい。おかしいと思って出版社に聞いたら、一定以上売れた分は新人の育成に回してますって言われたって」
「誰が」
「出版社が。堂々と」
北村が顔を上げた。
「北村、お前知ってた?」
「……知ってたっていうか」北村はビールを飲んだ。「仕組みとしては、ある」
「明文化されてない。でも、売れてる作品の利益で赤字の新連載を回すのは、出版社のポートフォリオ管理としては珍しくない」
「それ、作家に説明してんの?」
「……するところとしないところがある」
「してないところのほうが多い?」
北村は答えなかった。
寺田はポテトサラダを取り分けている。「その漫画家、めちゃくちゃ怒ってたよ。サブスクは作家の収入を守るために出せないって出版社は言うくせに、裏では作家の収入をいじってるじゃないかって。それどっちの味方もしてないじゃんって」
「寺田、その人名前は」
「言わないよ。仕事の関係だし。ただ、お前にも聞かせたかった」
「聞かせたかったって」
「だってお前、出版社の人間じゃん。作家がどう思ってるか、外の声として聞いといたほうがいいだろ」
北村は焼き鳥の串を皿に置いた。奥田は二人のやりとりを黙って見ていた。
だし巻き卵が来た。寺田が取り分け、北村がつゆを少しかけ、三人で黙って食べた。
「ところでさ」奥田が話題を変えた。「漫画アプリの広告って、なんであんな苛つくんだろうな」
「急に何」
「いや、動画のCMは別に気にならないのに、漫画アプリで話の途中に広告が挟まると、すげえ苛つく」
「あー」寺田がうなずいた。「デザインやってるからわかるかも。漫画って読者が自分のリズムでめくってるんだよ。能動的な体験の中に、勝手に別のものが割り込んでくるから苛つくんだと思う。動画はもともと向こうが流してくるものだから、CMも流れの一部として受け入れやすい」
「それ」奥田が指を鳴らした。「そういうことだよ。スイッチを外から切り替えられる感じがするんだ」
「お前のところのアプリチームに教えてやりたいな」
「言っても変わんないよ。広告収入の数字が出てる以上」
「だからサブスクにしろっつってんだよ」
「話が戻った」
「全部そこに戻るんだよ」
北村は三杯目を頼んだ。今度はハイボールにした。
「つーかさ、百歩譲って試し読みがあるのはいいとして、せめてもっと読ませてくれよ」奥田がテーブルに肘をついた。「三十ページとか何もわかんないだろ。一巻まるごと無料とか、三巻まで無料とか、それくらいやってくれたら判断できるのに」
「それ、無償で出してるってことだよ」寺田の声が低くなった。「作家の印税、ゼロ」
「まじ?」
「ゼロ。無料公開分は一円も入らない。俺んとこの漫画家がぼやいてた」
「もちろん出版社もだよ」北村がグラスを回した。「無料は本当にゼロなんだ。広告で少し回収してるけど、焼け石に水。で、その無料で読んだ人間のうち何人が課金に転換するかっていうと、笑えないくらい低い。でも無料をやめたらアプリのダウンロード数が落ちる。数字が落ちたら上に説明がつかない。だからやめられない」
「……もっと無料にしろって言ったけど、増やせば増やすほど作家はタダ働きってことか」
奥田の声が小さくなった。北村は自分の担当作家の顔を思い浮かべていた。締め切り前に痩せる人と、締め切り後に痩せる人がいる。
「そういうことだよ」寺田が箸を止めた。「お前が悪いんじゃないけどな。その仕組みがおかしいんだ」
「それサブスクなら全部解決するだろ」奥田が身を乗り出した。「月額で入ってる時点で、一話読もうが百話読もうが、出版社には金が入ってるわけだから。無料の穴もない。読者は損得を考えなくていい。作家にも再生数なりページビューなりで分配される。全員にとってましじゃん」
「数字の上ではそう」
「数字の上では、ね。じゃあ何が止めてるの」
「裁量だよ」北村はハイボールを受け取った。「今の仕組みだと、出版社が作品ごとに取り分を調整できる。サブスクになったら分配がアルゴリズムで決まる。透明になる。透明になったら、さっき寺田が言ったみたいな再分配がやりにくくなる」
「やりにくくなって困るのは出版社だろ」
「出版社だよ」
「作家でも読者でもなく」
「作家でも読者でもなく」
寺田が焼き鳥の串を三本まとめて灰皿の横に寄せた。
「つまり、読者は読みたいのに読めない。作家は読まれたいのに届かない。間にいる出版社が、自分のやり方を変えたくないから止めてるって、そういうこと?」
「そんな単純じゃないけど」
「単純じゃないのはわかるよ。でも、外から見たらそう見えるってことは覚えといたほうがいい」
北村は何も言わなかった。
追加でハイボールをもう一杯と、明太子のだし巻き卵を頼んだ。頼んだのは寺田で、北村は酒を飲んでいた。
「ひとつ聞いていい?」奥田が北村に向いた。
「なに」
「お前、自分の会社のアプリで漫画読むとき、金払ってる?」
「社員アカウントだからタダだよ。当たり前じゃん」
奥田と寺田が同時に北村を見た。
「何」
「お前がタダで読めてる環境を、金払ってる読者が持ってないんだぞ」
「……あー」
「あーじゃねえよ」
寺田が笑った。
「そういうとこだよなあ」寺田はビールを流し込んだ。「中にいると見えなくなるんだよな、そういうの」
「盲点だった」北村は自分の声が乾いているのがわかった。「割と本気で」
「盲点っていうか」寺田は箸を置いた。「俺もデザインの仕事でクライアントのサービスを使うときは無料アカウントもらうことあるけどさ、そのたびに、一般ユーザーと同じ条件で触らないとわかんないことがあるなって思うよ。お前のところもそうなんじゃない?」
「……そうだろうな」
会話がすこし沈んだ。奥田は枝豆の殻をまとめて皿の端に寄せた。
「俺はさ」奥田の声が少しだけ静かになっていた。「べつに出版社を潰したいわけじゃないんだよ。ただ面白い漫画を、面白いって思いながら読みたいだけなんだ。月三千円払うから、全部読ませてくれ。つまんなかったら次にいく。面白かったらお前らに勧める。それだけのことなんだよ」
「俺んとこの漫画家も同じこと言うよ」寺田が北村を見た。「読まれたい。届けたい。ちゃんと対価も欲しい。でも今の仕組みだと、届くまでの道が遠すぎるって」
「作家も読者も同じこと思ってんのに、間にいる人間が動かないってのは」奥田はそこで口をつぐんだ。北村の顔を見たからだった。
北村はハイボールの氷をストローで突いていた。
「可愛がってくれてる上の人がいるんだけどさ、今度飲みに行ったとき、ちょっと言ってみるかな」
「おお」
「まあ、俺が辞めた後にしてくれって言われると思うけど」
寺田が笑った。奥田は笑わなかった。
「それ冗談じゃなくて本気で言うんだろうな、その人」
「本気で言うよ。自分の在任中には触りたくないって、そういう話だから」
北村はようやく少し笑った。
会計のとき、三人とも酔っていた。割り勘にして、店を出て、駅まで並んで歩いた。六月の夜風がぬるかった。
「あ、で」奥田が思い出したように振り返った。「あのアニメの原作、結局どのアプリで読めんの」
「お前タイトル言えよ。調べてやるから」
「それを出版社の人間に聞かなきゃいけない時点でおかしいと思わない?」
「……思うよ」
改札の手前で、北村が立ち止まった。
「今日の話」
「うん」
「誰にも言うなよ。二人とも」
「言わないよ」
「言ったって何も変わんないし」
北村は二人を見て、少しだけ間を置いた。
「だから言うなって言ってんだよ」
何も変わらないことが知れ渡ること自体が、北村にとっては脅威だった。奥田と寺田にはそれがわかったから、笑いもしなかった。