FAVEのポップアップショップは整理券制で、二人の番号が呼ばれたのは十一時半だった。
千明がカフェスペースの席を確保して、飲み物を二つ買っておく。パンダちゃんは物販の列に向かった。今日のパンダちゃんはくすんだピンクのジャンパースカートに白いブラウスで、ベレー帽から編み込みが覗いている。高校生がよくこれだけ纏められるものだと毎回思う。混雑した物販の列を、ロリータ服の小さな背中がするすると進んでいく。
十分ほどで、パンダちゃんがグッズの袋を山ほど抱えて戻ってきた。
「ほんとに三個でよかったんですか?」
「いいよ、三個」
「……三個」
パンダちゃんが微妙な顔をする。少ないと言いたいのだろう。千明は笑って、差し出された銀色の袋を三つ受け取った。
「記念だから。これで出なかったら今日はそういう日」
「わたしは出るまでやります」
宣言済みのパンダちゃんは、自分の分の袋をトレイの横に積み上げ始めた。七つある。千明の倍以上だ。
「開けていい?」
「一緒に開けましょう」
銀色の袋を破く。中からアクリルスタンドが出てくる。
千明、ひとつ目。鷲尾くん。
「あー」
「やぎさん、もってますね」
「持ってるねぇ」
二つ目。Cくん。悪くはないけれど、手元に置きたいかと言われると、そういう気持ちにはならない。三つ目。また鷲尾くん。
「今日はそういう日だね」
「三つじゃ何も言えなくないですか」
パンダちゃんが冷静に返す。それはそう。
パンダちゃんの方はすでに五つ開けていて、テーブルの上に小さなアクリルの人型が並んでいる。鹿野くんはまだいない。
「もう一周いってきます」
パンダちゃんが立ち上がる。千明は小さく手を振った。
「いってらっしゃい」
出るまでやると決めている人間を止めても意味がない。それは千明が三つと決めているのと同じで、金額の問題ではなく、ルールの問題だ。
スマホを開く。タイムラインにはまだ先週のドーム公演の余韻が残っていた。セトリの感想、ファンカムの共有、MCの書き起こし。千明はそれをぼんやり眺めながら、アイスラテを一口飲んだ。
パンダちゃんが戻ってきた。両手に袋を四つ抱えている。
「出ました」
「おめでとう」
「ありがとうございます。十一個目でした」
テーブルの上が賑やかになる。鹿野くんが二体、パンダちゃんの前に並んだ。
「やぎさんの鷲尾くん、鹿野くんと交換しましょうか?」
「いいの?」
「鷲尾おたに知り合いいるんで、たまに鹿野くんと交換してもらってるんですよ。わっしーさんっていうんですけど」
パンダちゃんがスマホを差し出した。画面にはわっしーさんのアカウントが開いている。
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> 今日のFAVEやばすぎて語彙力全部ドームに置いてきた😭
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> 鷲尾くんソロで息止まったしMCの「届いてますか?」で声出して泣いたのに後半関係者席のイケメンに気を取られて集中できなかった 鹿野くんのファンサに手ふりふりしてた誰なの他界隈全然わからん
「すごい熱量だね」
「好きなんですよ、鷲尾くんのこと。MCに物申したりもするから、たまにちょっとひやひやしますけど」
「物申す?」
「ファンだからこそ言うみたいな。この前のMC長すぎ、歌聴きに来てるんだけどって書いてて」
千明は少し笑った。好きだからこそ言う。それはひとつの誠実さだと思う。
パンダちゃんが残りの袋を開けながら、テーブルの上の鷲尾くんに目をやった。もう一体、まだ千明の手元に残っている。
「やぎさん、そっちの鷲尾くんも交換出します? SNSで募集したらすぐ決まると思いますよ、鷲尾くんレート高いんで」
「レート高いんだ」
「歌うまだし人気あるんで。鹿野くんかDimeさんなら一対一でいけると思います」
千明は少し考えるふうにして、首を振った。
「そういうのはいいや。あんまりランダム商法に加担したくないっていうか」
「加担」
「交換が成立すればするほど、ランダムで売る側の思う壺じゃない? 欲しいものが出なくても誰かと交換できるなら、じゃあ買おうってなる。その流れに乗るのがちょっと」
言ってから、千明は自分のテーブルの上を見た。銀色の空袋が三つ。
「まあ、買っちゃってますけどね」
「推しを人質に取られてるから仕方ないですよ」
パンダちゃんが肩をすくめる。ポップアップ限定のドリンクが甘すぎるとか、鹿野くんの新しいヘアスタイルがどうとか、ぽつぽつと話が移っていく。どこにでもある推し活の午後だった。
千明がアイスラテのストローを咥えたまま、タイムラインをスクロールしていたときだった。
画面の上部に、ニュース速報のプッシュ通知が落ちてきた。
**【速報】FAVE・鷲尾、女優Mと熱愛発覚 都内レストランで親密な姿**
千明の指が止まった。
顔を上げる。パンダちゃんはまだ袋を開けている。まだ気づいていない。
カフェスペースの空気が変わったのは、その数秒後だった。
隣のテーブルの二人組が同時にスマホを見て、片方が「え」と声を漏らした。少し離れた席の女の子がイヤホンを外して、連れの顔を見た。レジの方で並んでいた人が列を離れて、壁際でスマホを覗き込んでいる。
パンダちゃんが手を止めた。空気で気づいたのだろう。千明のスマホを覗き込む。
「あ」
それだけ言って、自分のスマホを取り出した。
タイムラインはすでに流れ始めていた。同じニュースのリンクが何度も、何度も、アイコンだけを変えて流れてくる。
テーブルの上に、さっき交換に出すはずだった鷲尾くんのアクリルスタンドが一体、まだ残っていた。パンダちゃんがそれをちらっと見て、何も言わずにポーチの中にしまった。
「……交換、今日はやめといた方がいいですね」
「うん」
さっきパンダちゃんが言った「レート高い」が頭をよぎった。五分で暴落した。
ポップアップのカフェスペースは、五分前とは別の場所になっていた。話し声のトーンが下がり、あちこちでスマホの画面が光っている。普段なら「鷲尾くん譲ります」とポストすれば一瞬で交換相手が見つかるのに、今その名前をタイムラインに流せる空気ではなかった。
「わっしーさん、どうしてるかな」
パンダちゃんがスマホを操作して、千明の方に画面を傾けた。
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> は?
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> ごめん今ポップアップいるんだけどちょっと待って無理
千明はパンダちゃんのスマホを覗き込んだ。「ポップアップいる」という文字が目に入る。
「ここにいるんだ」
千明は周囲をなんとなく見回した。どこかのテーブルに、今まさにこの文字を打っている人がいるのかもしれない。
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> いや変装する気なさすぎない???今何のタイミングだと思ってんの ドームツアー中だよ?
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> 相手もNHKのドラマ決まるとか噂出てたよね??お互いのキャリアのこと考えてなさすぎて怖いんだけど
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> 好きだから言うけどプロ意識どうなってんの
> チケット取るためにどんだけ頑張ってるか知ってる?
「怒ってますね」
パンダちゃんが静かに言った。
「怒ってるね」
「まあ、鷲尾くんのこと好きですからね、あの人」
パンダちゃんのその一言には、判断が入っていなかった。怒っている人を見て、理由を分析するのでもなく、否定するのでもなく、ただ「好きだから怒っている」という事実だけを掬い上げて置いた、という感じだった。
> **わっしー🦅** @wassy_fv
>
> ファンのことなんだと思ってるんだろう
> こっちはお前の歌聴くために生活削ってんだよ
千明はその投稿を見て、少しだけ胸のあたりが引っかかった。
生活を削ってる。
それはたぶん本当だ。チケットの抽選に申し込んで、遠征の交通費を計算して、グッズの予算を捻出して、有給の残りを数えて。わっしーさんの鷲尾くんへの気持ちは、ちゃんとお金と時間の形をしている。
でも、と千明は思う。
ドームで隣の席のイケメンに気を取られて集中できなかったのも、同じ人だ。
それを言語化しかけて、やめた。誰にも言わなくていいことだと思った。
「パンダちゃん」
「はい」
「パンダちゃんはさ、鹿野くんに恋人いたら怒る?」
パンダちゃんは少し考えるふうにして、アイスティーのストローを引き抜いた。
「怒りはしないと思いますけど」
「うん」
「でもちょっとだけ、交換のとき気まずいなと思うかもしれないです。わっしーさんと」
千明は一瞬きょとんとして、それから笑った。パンダちゃんの心配はいつもそういうところにある。感情の前に、まず関係の実務が来る。
パンダちゃんの画面ではまだ投稿が増え続けていた。わっしーさんの投稿は速度を上げていて、リプライ欄も膨れ上がっている。同意する声、たしなめる声、関係ないアカウントの野次、公式への問い合わせ。その全部が同じ速度で流れていく。
千明は顔を上げた。
「帰ろっか」
「はい」
テーブルの上を片づける。空になった銀色の袋と、カップの結露がテーブルに丸い跡を残していた。
パンダちゃんがポーチからさっきの鷲尾くんのアクリルスタンドを出して、少し眺めた。
「これ、どうしよう」
「……今度でいいんじゃない」
「ですよね」
パンダちゃんはそれをまたポーチにしまった。鷲尾くんの小さな立ち姿が、ファスナーの向こうに消えた。交換の通貨として機能していたものが、今は行き場のない預かり物になっている。
ポップアップショップを出ると、六月の湿った空気が肌にまとわりついた。パンダちゃんが日傘を開く。
「やぎさん」
「ん?」
「次のツアーのチケット、先行いつでしたっけ」
「来週の月曜」
「忘れないようにしないと」
パンダちゃんはそう言って、スマホにメモをしていた。さっきまでタイムラインが燃えていた画面に、リマインダーの入力欄が開いている。
千明は何も言わなかった。
来週になれば先行が始まって、チケットの当落に一喜一憂して、セトリの予想をして、また同じようにポップアップに並ぶのだろう。わっしーさんも、たぶん。
駅までの道を歩きながら、千明はポケットの中の鹿野くんに指先で触れた。
さっきまで鷲尾くんだったもの。交換によって鹿野くんになったもの。その変換のあっけなさについて、千明は少しだけ考えて、やめた。
考えたら終わる、とパンダちゃんは前に言った。
終わるというのが何を指しているのか、千明にはまだよく分からない。