2026.05.05

/phの再帰

サイト限定

完結

888文字 約1分

台所のシンクで、晃が瓶の口に布を被せている。アルコール分1パーセント未満、と凪はかつて言い張っていた。瓶は同じ瓶、レシピも同じレシピ。なのにできあがる液体の色が、あの夜とほんのわずかに違う気がする。気のせいだ、と晃は自分に言い聞かせる。言い聞かせて、それでも違う気がする。

金細工のような月が窓の外に斜めに掛かっている。あの夜と同じ角度、同じ高さ、同じ青み。月だけが何も忘れていない。

凪はもういない。いつから、というのは答えにくい。書類上の何月何日と、晃のなかの何月何日は、たぶん少しだけずれている。位相が、と晃は思う。最後の数か月、凪は何度か位相という言葉を口にしていた。何の話だったかは思い出せない。思い出さなくていい、と凪は言うはずだ。

コップにとくとくと液体を注ぐ。一人分。もうひとつのコップは戸棚の奥にしまったままにしている。出さない。出してしまうと、もうひとくちぶんの嘘がつけなくなる。

晃は床に直に座り込んで、壁にもたれた。あの夜、凪が肩を寄せてきた位置に、今は何もない。何もない壁が、思ったより重い。寒い、と誰かが言いそうな気がして、晃は誰のためでもなく、寒い、と低く呟いた。呟いた声を、月だけが聞いた。

このお酒に名前をつけるなら、/phにしようかな、と凪は言った。IFをもじるんだよ、と。Iを斜線で、fをphで書く。/phは、書かれない言葉のほうがきれいだ、とも言った。書かれなかった言葉が、書かれた言葉よりもどれだけ多いか、晃は今になって少しずつ数えている。数えても終わらない。

コップを傾けて、晃は一口、薄めた墨を飲んだ。一滴を水で薄めて、薄めて、薄めて、飲める濃度までもっていく。年単位で薄める。それでも致死量はとっくに超えている。最初から。

船を岸につけて、オールはもういらない、と誰かが言った。誰だったかは、今夜はもう、わかっている。わかっていることを、晃は誰にも言わない。/phは、書かれないままで、きれいだ。

いつか、と晃は呟かない。呟かないことだけが、凪に残された自分の仕事だと思っている。

凪と晃 シリーズの他の作品

  1. /ph
  2. /lx
  3. /au
  4. /m.
  5. /Hz