朝、玄関の三和土。晃は革靴を履いて、扉のノブに手をかけたまま、後ろを振り返らずに、行ってくる、と言った。背中にいってらっしゃいが届いた。届いた声が、いつもより半音だけ低い気がした。半音、というのは比喩で、本当は何ヘルツかなんて晃にはわからない。けれど凪の声には、いつも晃が知っている周波数の幅がある。今朝の声は、その幅の下のほうに沈んでいた。
外廊下に出て、扉を引いた。空気が一瞬だけ重くなって、扉が枠に収まる。鍵を差し込んで、右に回す。シリンダーの内側で何かが噛み合う感触が、指の腹を通って手首まで届く。カチン、と低い音がして、ノブの遊びが消えた。
そこで晃は手を止めなかった。もう一度、同じ方向に鍵を回す。回らない。当たり前だ。閉まっているものは、もう閉まっている。それでも晃の指は同じ動きを繰り返した。自分のものとは思えないくらい、馬鹿な指だった。
馬鹿だ、と頭ではわかっている。わかっていることと、しないことは違う。一度では信じきれないから二度回す、と言葉にしてしまうと、信じきれない対象が鍵じゃないことに自分で気づいてしまう。気づいたら、ノブに手が戻る。だから言葉にしない。
三月の終わりの空気は、白っぽい。花粉のせいだと毎年自分に言い聞かせるが、本当にそれだけだろうか、と疑わしく思う朝もある。今朝はその朝だった。
晃はようやく扉から手を離した。離して、エレベーターのほうに歩き出して、五歩目で振り返った。誰もいない。当たり前だ。凪は中にいる。中にいて、たぶん台所で、何かしているか、何もしていないかしている。
エレベーターのボタンを押す指先が、まだ少し冷たい。下りの音が遠くから上がってくる。三月の境目の音は、いつも何ヘルツか低い。凪のいってらっしゃいの周波数と、よく似ている。