台所のシンクで、凪が瓶の口に布を被せている。アルコール分1パーセント未満、と本人は言い張っているが、甘い匂いはもうとっくに部屋の天井まで届いていて、換気扇はいくら回しても追いつかない。金細工のような月が窓の外に斜めに掛かっている。
「法整備されてないうちは合法だ」
凪が笑うので、晃は屁理屈ー、と短く返した。のまねぇのか、と問われて、のむよ、と答える。それ以上の会話はいらなかった。互いのコップに透き通った液体が落ちていく音だけが、しばらく台所を満たす。
晃は昔から、頭の回転が早すぎるせいで言葉の選択を間違える。一足飛びに結論だけを口にして、途中の段を全部飛ばしてしまう。だから今夜も、本当は違うことを訊きたかったのに、出てきたのは別の言葉だった。
「凪としたことって、あとどれくらい残ってる」
凪は瓶の口から目を上げた。瞳の、一番濃い部分にピントが合う。興奮すると血流が増して目の色が暗くなる、とどこかで読んだことがある。今の彼の目は、暗い。修辞疑問に答えるのやめてよ、と低く笑われて、晃は口をつぐむ。違う、修辞じゃない、と言おうとして、言えなかった。凪にとっては修辞だったのだと気づいたからだ。答えなんて最初から要らなかった。投げて、沈めて、そのまま水の底で風化させるためのものだった。
一滴の墨は水で薄めて、薄めて、薄めて、飲める濃度までもっていく。そうやって何年もかけて平静に至れるまで薄めてきたのに、ひとくちで元に戻る。致死量はとっくに超えてる。最初から。
コップの中の液体は、月の光を通すと少しだけ青い。凪が密造酒と称するものを晃の前に押し出して、飲む、と短く訊いた。のむ、と晃は返す。ふたりは台所の床に直に座り込んで、壁にもたれた。凪が肩を寄せてくる。寒い、と彼は言った。晃は返事をしない。心臓の音が漏れてしまいそうで、息を殺して、殺して、しばらくそのまま動けなかった。
しばらくしてから、凪が晃を呼んだ。ん、と答えると、彼はコップの中の青い液体を覗き込んで、肩越しにつぶやく。
「このお酒に名前をつけるなら、/phにしようかな」
IFをもじるんだよ、と凪は続けた。Iを斜線で、fをphで書く。発想が飛躍するな、と晃が呟くと、おしゃれじゃない? と凪は笑う。壮大な話だね、と晃が返すと、いつだっておっきい、と凪は返して、もっとミニマムな話がお好みか?ん? と続けたが、そこから先は答えなかった。
金細工の月が窓枠からずれていく。密造酒はもう半分になっていて、事象の地平線みたいに、向こう側のことはこちらからはもう見えない。もしも、と言いかけて、晃はやめた。
/phは、書かれない言葉のほうがきれいだ、と凪がいつか言ったはずだった。はずだった、と過去形にしてしまえるくらいには、晃はもう凪の言葉を自分の中で古くしている。けれど古くしても、肩に乗っている凪の重みは、嘘ではなかった。
いつか。いつか。いつか。
船を岸につけて、オールはもういらない、と誰かが言った。誰だったかは思い出せない。思い出さなくていい。コップを傾けて、晃は一口、薄めた墨を飲んだ。