電車の最後尾、終点まであと三駅。凪はドア横の手すりに肩を預けて立っていた。座席は空いているのに、座る気が起きない。座ったら、隣に晃が座る。隣に晃が座ると、肩が触れる。今夜の凪は、その重みを引き受ける手前で踏みとどまっていたかった。
晃は窓に向かって立っている。喪服の黒は、車内の蛍光灯の下では真っ黒には見えない。ところどころ青みがかって、ところどころ茶色く見える。本当に黒い色というのは、たぶんこの世にはない。あるのは、黒のつもりで作られたものだけだ。
ネクタイは緩めなかった。ホームに降りた時も、改札を出てから電車に乗り換えるまでも、凪は喉元に指をかけなかった。緩めると、たぶん、何かが終わる。終わってしまえば楽になる。楽になりたくない理由を、凪は自分に説明しない。
「凪」
晃が窓を向いたまま、低く呼んだ。窓ガラスに映った晃の口がうごく。なに、と凪は返した。返したあとで、なに、と訊いてしまった自分に少しだけ腹が立った。返事をしないでよかった。
モーニングって、と晃は続けた。
凪は窓ガラスに映った晃の口を見ていた。喪のmourning、と頭の中で綴ってみる。一文字戻せば朝になる。戻らない一文字のところに、今夜の晃が立っている。
電車が緩いカーブに入って、二人の体が同じ方向に少し傾いた。傾いてから、傾きを戻す。戻したぶんだけ、晃の肩は凪に近くなった。気づかないふりをするには、近すぎた。
凪はネクタイの結び目に指をかけた。かけて、けれど引かなかった。引かなかった指が、自分のものとは思えないくらい冷たかった。
電車のアナウンスが次の駅を告げる。窓に映った晃の喪服の黒は、まだ青みがかったままで、本当の黒には届いていない。